日本国憲法の基本的な内容について① -日本国憲法以前の明治憲法について-
日本国憲法の内容のために、最初に日本国憲法の前の明治憲法について考えておきます
・明治憲法について
※明治維新の後、日本で様々な憲法の案(私擬憲法)が作られた
→当時は、憲法をもとにして政治を行っていた
=このように、憲法にもとづいてにして政治を行う事を、立憲主義という
※明治維新の後の憲法に関する動きとして、自由民権運動という運動が活発だった
・自由民権運動・・国民の自由と権利、国会の開設、憲法の制定などを求めた運動のこと
→自由民権運動を抑えること、明治維新以降の国の体制を整えること、などの目的から、
国会を開設することと憲法を作ることを急いだ
・1889年(明治22年)に、明治天皇によって大日本帝国憲法(明治憲法)が制定された
※大日本帝国憲法は欽定憲法だった(反対を民定憲法と言う)
・欽定憲法・・君主(天皇や王様など、その国で最も位の高い人のこと)が
決めた憲法のこと
・民定憲法・・国民が決めた憲法のこと
・大日本帝国憲法では、基本的人権や社会契約説などの考え方はなく、
「臣民の権利」という考え方だった
※臣民の権利は、基本的人権のように生まれながらに平等という感覚ではなかった
→そのため、臣民(天皇以外の国民)の権利というのは、法律で制限される部分があった
=このような状態を、法律の留保と呼んだ
・立法、行政、司法の権利は、統治権を全て引き受けている人(=天皇)の名前で使われた
・外交権や統帥権は天皇大権(天皇が使えた権利のこと)だった
※特に、統帥権(軍の最高指揮権のこと)に関しては議会や内閣が
意見することができなかった
=そのため統帥権は、統帥権の独立と言われた
・明治憲法では、天皇の直接的な支配が基本だったが・・・
・立法権は、帝国議会の協賛(帝国議会が同意の意思を表示すること)に
よって実際に使われた
・行政権は、国務大臣の輔弼(天皇が行政を行う時に助言すること)に
よって実際に使われた
・帝国議会の衆議院を通じて、臣民が政治に参加出来た
・一方で・・
・衆議院とほぼ同じような権限を持っていた貴族院によって、
衆議院の力が抑えつけられていた
・枢密院や軍部などが強い力を持っていた
→以上のように、明治憲法のもとでは、複雑で自分達の権限を守りながら
勢力を拡大する仕組みがあった
※枢密院・・天皇の最高諮問機関(天皇が意見を聞くための人達の中で、
最も位の高い機関のこと)であり、国務の審議を行った
また、枢密院は政党や議会政治の監視なども行った
・明治憲法から日本国憲法に入るまでの流れについて
・最初、明治憲法の時に複雑な政党政治を動かしていたのは
元老(憲法には書かれていなかったが、政治の事務的な部分の決定や、
首相の決定などに関して力のあった人)だった
→大正時代になると、護憲運動などの影響で政党の力が強くなってきた
※護憲運動・・その当時の官僚の内閣などを潰して、
政党内閣を作ろうとした運動のこと
→第一次世界大戦(1914~1918)の後には、
世界的に民主主義の雰囲気が強くなっていった
=その影響で大正から昭和にかけて、「憲政の常道」として
政党内閣と政権政治が中心となった
→大正には、大正デモクラシーという運動が起き、
天皇機関説や民本主義が大正デモクラシーの後押しをしたと言われる
※・大正デモクラシー・・民主主義を目指す運動のこと
・天皇機関説・・天皇を国家の機関だとする考え方のこと
美濃部達吉によって提唱されたが、右翼などに攻撃されたため、
著書は発売禁止となり、結果的に美濃部達吉は
貴族院の議員を辞職することになってしまった
・民本主義・・天皇を主権にした上で、民主主義の実現を目指す考え方のことで、
吉野作造と言う人が主張した
→このような流れを受けて、1925年になると、
普通選挙制度(普通選挙法)と治安維持法が成立した
※・普通選挙制度(普通選挙法)・・満25歳以上の男子全員に
選挙権が与えられた制度のこと
・治安維持法・・共産主義のための運動を制限して、資本主義や天皇主権以外の
考え方を取り締まる法律のこと
→1929年の世界恐慌以降、経済や社会などに対して日本国内での不安が増えてきた
すると、天皇が統帥権を使って軍部を動かし、軍部の力が強くなり、
軍部を使おうとしたため、大陸を侵略するようになった
→1932年には、五・一五事件が、1936年には、二・二六事件が起こり、
世界各地が第二次世界大戦へ向かった
ポイント
・明治憲法の概要を押さえる
・明治憲法から、日本国憲法に入るまでの流れを押さえる