憲法の歴史について② -明治憲法から日本国憲法に入るまでの流れ-
明治憲法から日本国憲法に入るまでの流れを考えてみます
・明治憲法から日本国憲法に入るまでの流れについて
・最初、明治憲法の時に複雑な政党政治を動かしていたのは
元老(憲法には書かれていなかったが、政治の事務的な部分の決定や、
首相の決定などに関して力のあった人)だった
→大正時代になると、護憲運動などの影響で政党の力が強くなってきた
※護憲運動・・その当時の官僚の内閣などを潰して、
政党内閣を作ろうとした運動のこと
→第一次世界大戦(1914~1918)の後には、
世界的に民主主義の雰囲気が強くなっていった
=その影響で大正から昭和にかけて、「憲政の常道」として
政党内閣と政権政治が中心となった
→大正には、大正デモクラシーという運動が起き、
天皇機関説や民本主義が大正デモクラシーの後押しをしたと言われる
※・大正デモクラシー・・民主主義を目指す運動のこと
・天皇機関説・・天皇を国家の機関だとする考え方のこと
美濃部達吉によって提唱されたが、右翼などに攻撃されたため、
著書は発売禁止となり、結果的に美濃部達吉は
貴族院の議員を辞職することになってしまった
・民本主義・・天皇を主権にした上で、民主主義の実現を目指す考え方のことで、
吉野作造と言う人が主張した
→このような流れを受けて、
1925年になると、普通選挙制度(普通選挙法)と治安維持法が成立した
※・普通選挙制度(普通選挙法)・・満25歳以上の男子全員に
選挙権が与えられた制度のこと
・治安維持法・・共産主義のための運動を制限して、
資本主義や天皇主権以外の考え方を取り締まる法律のこと
→1929年の世界恐慌以降、経済や社会などに対して日本国内での不安が増えてきた
すると、天皇が統帥権を使って軍部を動かし、軍部の力が強くなり、
軍部を使おうとしたため、大陸を侵略するようになった
→1932年には、五・一五事件が、1936年には、二・二六事件が起こり、
世界各地が第二次世界大戦へ向かった
・日本国憲法が出来るまで
・1945年(昭和20年)に、日本はポツダム宣言を受け入れ、無条件で降伏を認めた
※ポツダム宣言では、政治を民主的にすること、軍国主義を無くすこと、
などが考えられていた
・そこで日本は、憲法問題調査委員会というところが松本案という憲法の改正案を作ったが、
明治憲法と内容があまり変わらないということで、却下されてしまった
→そのため、連合国軍総司令部(GHQ)がマッカーサー3原則という憲法の下書きを作り、
それをベースに帝国議会でいろいろと修正された
=これが結果的に日本国憲法となった
※・マッカーサー3原則:天皇をトップに置くこと、
戦争を放棄すること、
封建的な制度を廃止すること
を原則とした内容のこと
※・日本国憲法は、1946年11月3日に公布され、1947年5月3日に施行された