政党内閣の誕生について
政党内閣の誕生について考えてみます
・政党内閣の誕生について
・1916年に、吉野作造という人が民本主義という考え方を提唱した
※民本主義について
・民本主義・・国民の考えを尊重して、国民の利益と幸福を目的とした政治を行う
考え方のこと
※ただし、主権は天皇で、多くの国民が政治に参加することが
大切だと考えた
※民本主義と民主主義の違い
・民本主義・・明治憲法を前提として、天皇を主権と考えた
・民主主義・・国民が主権だと考えた
・民本主義は、天皇機関説と一緒に、大正デモクラシーを理論的に支えることになった
※大正デモクラシー・・大正時代に起きた、民主主義的な社会の様子や、
そのための運動などのことをまとめて指す
・吉野作造は、普通選挙制や政党内閣制の実現をして、下の階級の人達の
経済的な不平等を直していくべきだと考えた
→吉野作造の民本主義の提唱によって、政治で民主化を要求する国民の声が増えてきた
・しかし、1916年に第2次大隈重信内閣が総辞職するという出来事が起きた
→その次に寺内正毅という人が出てきて、超然内閣を作るという行動を取った
・寺内正毅内閣の超然内閣については、立憲同志会などの第2次大隈内閣の時の与党の
それぞれの派閥が集まり、憲政会という団体を作って、寺内正毅内閣に対抗した
→この結果、寺内正毅内閣は1917年に衆議院を解散させた
※この解散の後の選挙で、立憲政友会が衆議院の第一党になった
・第一次世界大戦によって日本の経済が急激に発展したことによって、
米騒動という出来事が起きた
※日本経済の成長が、なぜ米騒動を引き起こしたのか
・大戦の時に、日本の経済が急成長した
→この時に、工業労働者が増え、都市に人々が集まるようになった
=その結果、お米の消費量が増えた
・しかし、当時は農業が停滞したこともあり、お米の消費量が増えるにつれて、
お米の値段が上昇した
→そのため、都市で働く人や貧乏な農民の生活が苦しくなった
・さらに、1918年にシベリア出兵のために地主や商人がお米を買い込んだため、
お米の値段がさらに上昇した
→すると、富山県の漁村の女性をきっかけにして、都市の人々や貧乏な農民などが、
お米の安売りを求めて買い占めの反対を叫ぶようになった
※中には、お米の商人や精米会社などを襲って、警察とぶつかる人達もいた
→このようにして大騒動になり、政府が軍隊を出して抑えつけるまでになった
=この出来事を米騒動という
→米騒動が落ち着いた時に、寺内正毅内閣は責任を取って総辞職をした
・米騒動に驚いた元老たちは、とうとう政党内閣を認めることを決めた
→そこで、1918年9月に立憲政友会の総裁の原敬という人を首相に指名した
※原敬は、今までの首相と違い、華族や藩閥の出身者でなく、平民の衆議院議員だった
→そのため、原敬は「平民宰相」として国民に歓迎された
・原敬は、国民の期待とは反対で、普通選挙制を取り入れることに積極的ではなかった
→そのため、選挙権としての税金を3円に引き下げ、
小選挙区制という制度を取り入れるだけで終わってしまった
・しかし、普通選挙を求める運動はどんどん高まっていった
→そのため、1920年には数万人のデモが行われるようになった
→この動きを見て、憲政会などの野党は衆議院に男子普通選挙法を提出した
※しかし、政府は時期が早すぎるという理由で拒否して、さらに衆議院を解散させた
・与党の立憲政友会は、大戦景気があったため、立憲政友会のかねてからの政策だった
鉄道の拡充や高等学校の増加などの積極政策を公約にして、選挙で大勝した
・しかし、立憲政友会の積極政策は、1920年の恐慌によって
政府の財政が厳しくなったため、行うことが難しくなってきた
※さらに、この時に立憲政友会の関連する汚職事件が大量に発生した
・おまけに、1921年に原敬が、政党政治がダメになっている状況に
怒った一人の青年に、刺殺されるという出来事も起きた
→この後に、立憲政友会の高橋是清という人が後を継いだがすぐに終了した
→さらにこの後に、海軍の大将だった加藤友三郎という人が
立憲政友会を与党と扱って、内閣を作った
=ここから、約2年は3代にわたって、非政党内閣が続いた
ポイント
・政党内閣とその状況について、米騒動や原敬などを中心に押さえる
このあたりが今回のポイントです