第一次世界大戦の時の日本と中国について
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第一次世界大戦の時の日本と中国について考えてみます
・当時の日本と中国について
・イギリスがドイツに戦争を仕掛けた時、日本(第2次大隈内閣)は
日英同盟を理由にして、軍事行動の範囲をイギリスが納得してしない
という状況にも関わらず、ドイツに宣戦布告した
・日本は、中国にあるドイツが拠点としていた青島と山東省のドイツの利益を奪った
※この時一緒に、赤道よりも北側のドイツ領の南洋諸島というところの一部を占領した
・日本は、第一次世界大戦で忙しく、ヨーロッパの国々が中国の問題に関わっている
暇がないことを理由にして1915年に中国の袁世凱政府に、
二十一カ条の要求という要求を出した
※日本はこの要求を中国に文書でつきつけて、二十一カ条の要求の多くを認めさせた
※二十一カ条の要求の内容
・山東省にあるドイツの利益を日本がそのまま引き継ぐ
・南満州と東部内蒙古というところの利益を強化していく
・福建省が他国に領土の一部を渡さないことを再確認
・日中合弁事業という事業の承認 など
※二十一カ条の要求に対する中国国民の反発は強かった
→そのため、中国が二十一カ条を受け入れた5月9日を、中国は国恥記念日とした
・第2次大隈重信内閣の後に、寺内正毅内閣が出てきた
→寺内正毅は、袁世凱の後を継いだ段祺瑞という人の内閣に、大量のお金を貸し付けた
=この貸し付けを、西原借款という
※日本は、貸し付けを行うことで政治経済、軍事などの面で
中国における日本の利益を広げて行こうとした
・日本は、中国での利益を拡大する時に、周りの国からの反感を買わないように気を配った
→そのため、日本は以下のようなことを行った
・1916年に、第4次日露協約を結んで、極東(≒東アジア)での
日本とロシアとの特別な権益を擁護しあうことを確認した
・1917年に、イギリスとの間で覚書(忘れないように書いておく文書)を交換して、
ドイツの利益を引き続き獲得し続けることを確認した
・日本が中国に進出することを一番批判していたアメリカとの間で、
1917年に、日本の石井菊次郎という人と
アメリカのランシングという人が交渉をした
→この交渉の時に、中国の領土の維持、門戸開放、日本の中国での特別な利益を認める
ことでお互いに確認した
=この交渉のことを、石井・ランシング協定という
・連合国側であるロシアは、1917年に、帝政と戦争を続けることに
反対していた労働者や兵士が革命を起こした
=この革命をロシア革命という
→この革命によって、世界で初めての社会主義国家が誕生した
※後で、ソビエト連邦になる
・ボリシェヴィキ(後の共産党)のレーニンをトップに置いたソビエト政権は、
全ての戦争参加国に無賠償、無併合、民族自決の原則を呼び掛けた
→その次の年に、ドイツとオーストリアとソビエトとの間で単独講和を結んだ
=この講和を、ブレスト=リトフスク条約という
※この講和を認めた時に、講和国は戦争から離脱した
・寺内正毅内閣は、ソビエトの状況を見て、チャンスだと考えた
→そこで寺内正毅内閣は、旧ロシア帝国に支配されていた北満州と沿海州にまで、
日本の勢力を広げようとした
・そこで、1918年にアメリカが、シベリアにいたチェコスロバキア軍の
将兵を助けることを口実にして日本とアメリカが一緒に出兵をすることを
提案してきた
→この時、日本はアメリカ、イギリス、フランスなどの連合国軍の主力ということで
大量の軍をシベリアと北満州に派遣した
=この出来事をシベリア出兵という
※戦争が終了した後は、ほとんどの国がシベリアから軍隊を引き戻したが、
日本だけは1922年まで軍隊を置き続け、
軍隊とシベリアにいた革命に反対する政権の援助を行った
ポイント
・第一世界大戦の時の世界の様子を日本と中国の動きを中心に押さえる
このあたりが今回のポイントです