第一次世界大戦の時の外交と総力戦について

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投稿者:       投稿日時:2013/10/17 16:08      
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第一次世界大戦の時の外交と総力戦について考えてみます

 

 

・第一次世界大戦の時の外交と総力戦について

 

 

 ・同盟国側も連合国側も結束を固めていた

  →そこで、中立国を味方にするために、秘密条約を結んだ

   ※秘密条約には、以下のようなものがある

    ・秘密条約・・戦後の敵の領土や植民地の分配を決めた条約のこと

    ・イタリアに「未回収のイタリア」などの領土の譲渡を約束して、

     連合国側で参戦させたロンドン秘密条約

    ・連合国間でオスマン帝国領の配分を約束したサイクス・ピコ協定  など

 

  →また、両方とも自治や独立を約束して、植民地や民族独立運動を支援しようとした

 

  ※イギリスは、アラブ民族とユダヤ人国家建設運動の両方に、

   パレスチナを含む地域での独立を支援することを約束することで協力させた

   →この動きは、現在のパレスチナ問題の原因を作ったと言われている

 

 

 

 

 ・物量による戦いを支えるために、第一次世界大戦に参加している国々は、

  総力戦体制を作った

  ※総力戦体制・・国の力を戦争につぎ込む体制のこと

   →総力戦体制の時は、政府に強い権限が与えられ、以下のような動きが見られた

    ・軍需工業を優先した産業の体制への再編成

    ・女性や青少年の軍需工業への動員

    ・食料配給性の実施

    ・国民の消費生活全体の統制  など

 

  ※ただし、イギリスとフランスは、自分達が持っている植民地から資金や物資に加えて、

   労働力や兵隊もつれてくることが出来た  

   =そのため、統制はゆるやかだった

 

 

 

 

 ・一方で、貿易が断たれたドイツ、オーストリア、ロシアは厳しい経済統制を実行した

  ※しかし、都市住民の食糧不足は深刻で、食料暴動や反戦ストライキなどが大量に発生した

 

 ・また、各国の政府が多くの負担や義務を課して日常生活を規制するようになった

  →すると、国民の間から、規制に見合った参政権の拡大を要求する声が高まってきた

 

 

 

 

 ・1918年3月に、ドイツはロシア革命政府と単独講和を結んで、西部戦線で攻撃したが

  失敗に終わった

  →そこで、8月から連合軍の反撃が始まった

   ※秋には、ブルガリア、オスマン帝国が降伏し、オーストリアも休戦協定を結んだ

   ※さらに、10月にドイツが休戦交渉を申し出た

    =そのため、ドイツが急いで本格的な議会政治の体制を整えて、帝政を救おうとした

 

 ・しかし、11月の初めに、即時講和を求める水兵がキール軍港で蜂起した

  =この結果、革命運動が全国で広がっていった 

   ※この時に、皇帝がオランダに逃げ、国内の様々な君主も退位して、ドイツが共和国になった

    =この出来事を、ドイツ革命という

 

  →そして、1918年11月11日に、共和国政府が連合国と休戦協定を結んだことで、

   第一次世界大戦が終了した

 

 

ポイント

・第一次世界大戦の時の各国の様子についておさえる

 

このあたりが今回のポイントです

 

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