護憲三派内閣の誕生について
護憲三派内閣の誕生について考えてみます
・護憲三派の登場のその様子について
※護憲三派とは・・憲政会、立憲政友会、革新倶楽部の3つの政党をまとめた呼び方のこと
・1924年に貴族院や官僚などの力を武器に、清浦奎吾という人が超然内閣を作った
→その時に、憲政会、立憲政友会、革新倶楽部の3党が、超然内閣に反対して、
憲政擁護のための運動を行った
=この運動を、第二次護憲運動という
・政府は、立憲政友会を抜けた人達が作った政友本党という政党を味方にして、
議会を解散させた
→しかし、総選挙の結果は護憲三派の圧勝だったため、
清浦奎吾内閣は総辞職をすることになった
→清浦奎吾内閣に代わって、衆議院第一党の憲政会トップの加藤高明という人が
3党の連立政権で内閣を作った
=この内閣を護憲三派内閣という
・加藤高明内閣は、以下のようなことを行った
・幣原喜重郎外務大臣が行っていた協調外交を展開していった
・1925年に普通選挙法という法律を作った
→この法律によって、満25歳以上の男性が全て有権者として、
衆議院議員選挙で投票するこという、普通選挙制になって、有権者が約4倍に増えた
・1925年に治安維持法という法律が作られた
※治安維持法について
・治安維持法とは・・「国体」の変化や私有財産制を否定することを目的とする
団体を作った人とその団体に参加した人を処罰することを
決めた法律のこと
※国体・・国家の主権がどのように存在しているかによって区別される
国家のスタイルのこと
→当時の場合は、天皇制を指す
・治安維持法を作った目的には、大きく以下の2つがあったと言われている
→・1925年の日ソ国交樹立によって、共産主義の考え方が
日本で広まるのを防いだ
・普通選挙法によって、労働者が政治に与える影響力が大きくなるのを
防ごうとした
・1925年に、立憲政友会が陸軍と長州藩の長老だった田中義一という人を
トップに置いて、革新倶楽部を吸収するということが起きた
→この時に、護憲三派の政治は終了し、憲政会が単独で行う内閣になった
→1926年に、加藤高明が病気で亡くなると、憲政会の後を継いだ
若槻礼次郎という人が内閣を担当した
・1926年(大正15年)の終わりに、大正天皇が死去し、
摂政の裕仁親王(昭和天皇)という人が天皇に就いた
=そのため、元号が昭和になった
・1927年に第1次若槻礼次郎内閣が、金融恐慌という恐慌の処理に失敗したため、終了した
→その後、立憲政友会のトップの田中義一という人が次の内閣を作った
※この時、野党だった憲政会が政友本党と組み合わせて、立憲民政党という政党を作った
→その後、1924年の第1次加藤高明内閣が出来てから、
1932年の五・一五事件という事件で犬養毅内閣が終了するまでの8年間は、
立憲政友会と憲政会(後の立憲民政党)という2大政党のトップが交代で内閣を
行うという状態だった
=この状態を「憲政の常道」という
※立憲政友会と憲政党はどのような政策を考えていたのか
・立憲政友会
→・インフラの整備や産業の推奨などの積極政策を行った
・地域で利益が出るようにすることに対して熱心だった
・中国に対する政策については、軍に合わせる形での積極的な方針を取った
・憲政会
→・普通選挙の実現や軍備の縮小など、デモクラシー的な政策を行った
・政友本党と組み合わさって立憲民政党になってからも、「議会中心主義」を提唱した
ポイント
・護憲三派を中心にした当時の様子を押さえる
このあたりが今回のポイントです