パリ講和会議と中国・朝鮮の民族運動について
パリ講和会議と中国・朝鮮の民族運動について考えてみます
・パリ講和会議について
・アメリカ大統領のウィルソンという人が議会に14カ条を提唱して、
その提唱をドイツが受け入れた
→この受け入れによって、1918年11月に、休戦が成り立った
※14カ条の内容について
・これは、1918年1月18日にウィルソンが議会に出した教書のこと
・内容は、秘密外交の禁止、全ての経済障壁の撤廃、国際的な連合の設立
などの14カ条だった
※ただし、賠償問題には触れていなかった
・休戦が成立した次の年に、パリで講和会議が開かれた
※日本は、連合国の1つとして、西園寺公望や牧野伸顕などをパリに送った
→この時の会議で、6月に講和条約を調印した
=この条約をヴェルサイユ条約という
※ヴェルサイユ条約の内容
・ドイツ側に大量の賠償金を求める
・ドイツ側の軍備を制限した
・ドイツの土地の一部を譲り渡す
→このような、厳しいものだった
・一方で、民族自決の原則の考え方によって東欧で多くの独立国家を誕生させた
→さらに、国際紛争を平和に解決することや国際協力を行っていくための機関として
国際連盟を作ることを決めた
=このように、ヴェルサイユ条約を土台にしたヨーロッパでの
新しい国際のルールを、ベルサイユ体制という
※国際連盟について
・国際連盟は1920年に誕生した
・それぞれの国の行動を規制するために、国際法を作った
・戦争を行わずに、それぞれの国の協調を促そうとした
※ただし、戦争で勝った国に有利にする状況を維持するものもあった
・日本は、イギリス、フランス、イタリアの3国と一緒に常任理事国になった
・国際連盟を提唱したアメリカは、上院に反対されたため、
国際連盟に参加できなかった
・中国や朝鮮での民族運動について
・日本は、ヴェルサイユ条約によって、山東半島のドイツの利益を
引き続き受け継ぐことを認められた
→これと同時に、赤道より北側のドイツ領の南洋諸島の委任統治権という権利を得た
※委任統治権・・植民地のような地域に関する統治の権利のこと
※ヴェルサイユ条約の時に、日本は人種差別撤廃条約をすごく推した
→日本がこの条約を推した理由に様々な説があるが、
大きくは以下の2つあると言われている
・山東半島に関する問題の時の取引材料として使おうとした
・国際連盟が白人人種を中心にした連盟になることを防ぎたかった
※山東問題については、会議のときからアメリカなどは反対していた
・上のような状況で、中国は1919年5月4日から北京などで
山東半島の返還などを求めて、学生や労働者などが反日の国民運動を行った
=この出来事を五・四運動という
→中国はこれに加えて、二十一カ条の要求の内容を撤廃することを要求したものの
会議で拒否された
=そのため、中国はヴェルサイユ条約に調印しなかった
・その後、民族自決という考え方が国際レベルで広がっていった
→その状況の中で、東京に住んでる朝鮮人の学生、
日本に支配されている朝鮮の学生や宗教団体などが
朝鮮の独立を求める運動が起きた
※1919年3月1日に京城(現在のソウル)の
パゴダ公園(現在のタプッコル公園)というところで独立宣言朗読会
という会を開いた
→この会をきっかけに、朝鮮全体で独立を求める人々の運動が始まった
=この運動を三・一独立運動という
・朝鮮の三・一独立運動は、基本的に平和で暴力を行わないものだった
※しかし、朝鮮総督府は警察や憲兵、軍隊などを使って、
三・一独立運動を厳しく抑えつけた
※ただし、国際の意見を配慮することと、原内閣の考え方により、
今までは朝鮮総督府が現役の軍人だけだったものを、文官までに拡大したり、
憲兵を廃止したりするなどの、少しの改善を行った
ポイント
・パリ講和会議について押さえる
・中国と朝鮮の民族運動について押さえる
このあたりが今回のポイントです