政党内閣の終了と国際連盟の脱退について
政党内閣の終了と国際連盟の脱退について考えてみます
・政党内閣の終了について
・ロンドン海軍軍縮会議での統帥権干犯問題、昭和恐慌、満州事変などをきっかけに、
軍人や右翼などによる国家改造運動というのが急激に活発になっていった
→陸軍や海軍の青年や右翼の人達は、日本が停滞してしまう原因は、
財閥や政党などの支配する階層の人達が無能であり、
腐敗しているからだと考えた
=そこで、支配層の人達を倒して、軍を中心とした内閣を作ることで、
国内と国外の政策を大きく変えることが必要だと考えた
・1931年に、陸軍の青年が、三月事件と十月事件という、
クーデターの未遂事件を起こした
※三月事件
→橋本欣五郎という人をトップに置いた陸軍の青年の秘密結社である
桜会という団体が、右翼の指導者である大川周明という人の協力と
陸軍の一部の賛同を得て、軍部政権を作るためのクーデターを計画したが、
結局クーデターが起きなかった、という事件のこと
※十月事件
→桜会が大川周明などの右翼と手を組んで政党内閣を倒して、
満州事変に合わせる形で強引に国内の改造を行うための
クーデターを企画したが、未然にバレてまた失敗した、という事件のこと
・1932年の2月~3月に、井上日召という人を中心した右翼の血盟団という
団体の団員が、元大蔵大臣の井上準之助と三井合名会社理事長の団琢磨という人を
暗殺する、という事件が起きた
=この事件を、血盟団事件という
・1932年5月15日に海軍の青年の一団が首相官邸に入って、
犬養毅首相を射殺するという事件を起こした
=この事件を五・一五事件という
・上のような一連のテロ活動は、支配層を脅かしたと言われている
→そこで、元老の西園寺公望という人は穏健派で海軍の大将だった斉藤実という人を
次の首相に任命した
=この時に、大正の終わりから8年続いた政党内閣が終了した
※政党内閣は太平洋戦争の後まで復活しなかった
・国際連盟の脱退について
・1932年9月に、斉藤実内閣は日満議定書という議定書をやりとりして、
満州国を認めた
※満洲国について
・満洲国は、日本の権益と日本軍の無条件の駐屯を認めた
・満州の交通機関の管理を日本に任せることを決めた
・関東軍司令官の推薦と同意に基づいて、満州国政府の重要なポジションに
日本人を使うことを決めた
・日本は、満洲国については今までの事実を掘り返すことで国際連盟に
対抗することを考えていた
→一方で、連盟国側は1933年2月の臨時総会の時に、リットン調査団の
報告をもとにして、満州国は日本に操られている国家だということを認定した
=そのため、満州国の承認を日本が撤回するということを求める勧告案を
臨時総会で採択した
※リットン調査団の報告書の内容について
・満州国は満州の人達が自分から動いて独立運動を起こすことで、
作られたものではない
・日本の軍事行動は、自分の国を守るための軍事行動ではない
・日本の満州での経済面に関する利益は中国側が配慮をする必要がある
・当時の臨時総会に参加していた、松岡洋右という人を中心とした日本のチームは、
勧告案を採択した総会の会場から出ていった
→そして、日本政府は3月に、正式に国際連盟からの脱退を伝えた
(発効されたのは1935年だった)
・国際連盟の脱退を決めた後の日本について
・1933年5月に、日中軍事停戦協定(塘沽停戦協定)が結ばれた
→この協定によって、満州事変自体は終了した
※日中軍事停戦協定の内容について
・河北省の東北部の冀東という地域から、中国軍と日本軍の両方を撤退させる
・冀東を非武装地帯(軍隊や軍事施設を置かない地帯)とした
・冀東の治安維持は中国警察が行う
・しかし、日本は満州の経営と開発を行おうとした
→そのため、1934年に溥儀を皇帝にするという帝政に満州国を移行させた
・1936年に、日本が第2次ロンドン海軍軍縮会議という会議を脱退して、
ロンドン条約が効力を失った
→そのため、1934年に廃棄を伝えていたワシントン海軍軍縮条約も効力を失った
→以上のような状況だったので、当時の日本は国際的に孤立していたと言われている
ポイント
・政党内閣が終了するまでの流れを押さえる
・国際連盟の脱退の流れを押さえる
・日本が国際連盟の脱退を決めた後の動きを押さえる
このあたりが今回のポイントです