二・二六事件について
二・二六事件を中心とした当時の様子を考えてみます
・二・二六事件について
・国内政治に対する政党の影響力が、五・一五事件の後に少しずつ小さくなっていった
→逆に、軍部(中でも陸軍)や、すでにある政党に反発する政党、
現状打破、革新などを提唱する人達の政治的な発言力が大きくなっていった
※現状打破を考える人達は、以下のような理想を持っていた
・天皇を中心にして国民をまとめる
・計画経済を行い、内閣や議会の制度を改革する
・ワシントン体制を終了させる など
→そのため、当時斉藤実と岡田啓介という人達によって、
2代連続で海軍穏健派の内閣が続いたことは、
軍部や現状打破を提唱する人達などが不満を持つ原因の一つになった
・さらに、1934年に陸軍省というところが、「国防の本義と其強化の提唱」という
パンフレットを作った
※このパンフレットは、陸軍が政治や経済に積極的に関わっていく意思を示していた
・1935年に、貴族院で軍出身の議員だった菊池武夫という人が、
美濃部達吉の天皇機関説は反国体的だということで非難をした
→この非難をきっかけに、若干の政治問題となった
=この出来事を天皇機関説問題という
※天皇機関説とは・・統治する権利は国家にあって、天皇は国家の最高機関であるから
天皇は憲法に従って統治する権利(統治権)を使うべき
だと解釈する考え方のこと
→天皇機関説は、統治権は天皇にあり、天皇の統治権は無制限にある
という考え方の上杉慎吉という人などと対立していた
・天皇機関説は、今までは明治憲法の体制を理論的に支えるための
大切な考え方だとされていた
→しかし、現状打破を期待する陸軍や右翼、在郷軍人会という団体などが
全国で激しい運動を行った
=そのため、当時の岡田内閣は運動に従う形で、国体明徴声明(日本の国体は
明らかな証拠があり、正しいという考え方)を出して、天皇機関説を否定した
※上のような結果になったため、政党政治や政党内閣制が
理論的な支えを失うことになった
・当時の陸軍内部では、皇道派と統制派が対立する状況だった
※皇道派と統制派について
・皇道派・・軍隊に所属している青年を中心に、直接的な行動を取ることで、
今までの支配層を倒したり、天皇親政を目指したりすることを
目指す派閥のこと
→代表的な人に、荒木貞夫や真崎甚三郎という人などがいる
・統制派・・陸軍省や参謀本部などを中心に、革新派の官僚や財閥などと手を組んで
軍部の強い統制の中で総力戦体制という体制を作ることを
目指す派閥のこと
→代表的な人に、永田鉄山や東条英機という人などがいる
※総力戦体制・・国の力を全てつぎ込むという体制のこと
・皇道派と統制派の対立がはっきりした出来事として、1935年の
相沢事件という事件がある
※相沢事件・・皇道派の相沢三郎という人が、陸軍省で統制派だった永田鉄山を
殺した事件のこと
・1936年2月26日の早朝に、北一輝という人の考え方に影響を受けていた
皇道派の一部の青年たちが、以下のようなことを行った
→・約1400人の兵隊を連れて、首相官邸や警視庁などを襲った
・斉藤実内務大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎教育総監などを殺害した
・国会を含む国政の中心部分を4日間占拠した
=これら一連の出来事をまとめて、二・二六事件という
→この事件は、国家の改造や軍部政権の誕生などを目指したものだったが、
天皇が厳しく罰することを支持したこともあり、反乱軍という扱いになって鎮圧された
※さらに、首都には戒厳令という法律が出された
※この時は、北一輝の「日本改造法案大綱」という本が、
右翼の人達のバイブルになったと言われている
→この事件の後、統制派が皇道派を倒して、陸軍内での主導権を取った
※この時に、陸軍の政治での発言力が一層高まっていった
・その後、岡田啓介内閣の次に広田弘毅内閣という内閣が誕生した
※広田弘毅内閣は、政府の人選、財政改革、軍備の拡張などの面で軍の要求を取り入れて、
なんとか成立したというレベルだった
※広田弘毅内閣は、1936年に陸軍の要求を取り入れて、
軍部大臣現役武官制を復活させた
・1936年に、ワシントン海軍軍縮条約とロンドン海軍軍縮条約が
終了することが分かっていた
→そこで、陸軍と海軍が帝国国防方針の改定を考え、この改定に基づいて
広田弘毅内閣が「国策の基準」というものを決めた
※「国策の基準」の内容
・日本の地位を高める
・海軍の南進論(東南アジアや南洋諸島にじわじわと進出する考え方)を取った
・陸軍の北進論(ドイツを手を組んでソ連と対抗する考え方)を取った
・国内で、大規模な軍備の拡張計画が進められた
※海軍は、戦艦大和や武蔵などを含む大建艦計画が進められた
・しかし、国内の改革が中途半端なことに対して不満を持つ軍と
軍拡に反対する政党のそれぞれが反発した
→そのため、広田弘毅内閣は1937年の1月に総辞職した
・その後、陸軍の穏健派の宇垣一成という人が内閣を担当するという話が出てきた
→しかし、宇垣一成内閣に反発する陸軍が、陸軍大臣を推薦しなかった
=そのため、宇垣一成内閣を作ることが出来なかった
→結果的に、当時陸軍の大将だった林銑十郎という人が内閣を作った
※陸軍の統制派は、軍拡を展開するために、最初に重要な産業を育成することが
必要だと考えた
=そこで、林銑十郎内閣は軍財抱合(軍部と財界を調整すること)を行った
→しかし、この行動も失敗に終わった
→その後、1937年6月に貴族院の議長を担当していた近衛文麿という人が
様々な層から支持された
=そこで、第1次近衛文麿内閣が作られた
ポイント
・二・二六事件を中心に、当時の様子を押さえる
このあたりが今回のポイントです