満州事変について

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投稿者:       投稿日時:2013/10/17 18:50      
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満州事変について考えてみます

 

 

・満州事変について

 

 

 ・日本は、第一次世界大戦の時の好景気によって工業を発展させた

  ※しかし、1923年ころから貿易の調子が悪くなった

   →さらに、1927年には金融恐慌が発生した

    =そして、1929年の世界恐慌によって、日本が大きなダメージを受けた

 

 ・日本の経済面では、混乱が発生すると同時に労働争議が多発し、社会不安が広がった

  ※しかし、日本の既成の政党は政権争いを続けていたため、国民の信頼を失った

   =そこで軍部は、経済危機を大陸での支配圏の拡大によって解決することを考えた

 

 

 

 

 ・1931年9月に、日本の関東軍は中国東北地方(当時の日本は「満州」と呼んでいた)の

  柳条湖で鉄道を爆破するということを起こした

  →日本は、この爆破を口実にして、軍事行動を起こし、東北地方の大半を占領してしまった

   =この出来事を満州事変という

    ※日本の軍部は、国際社会の注目をそらすために、1932年に上海事変を起こした

 

 ・日本の軍事行動は国際的に批判された

  ※さらに、中国の提訴によって国際連盟がリットン調査団という団体の派遣を決めた

 

 ・関東軍は、既成事実を作るために、1932年3月に、清朝最後の皇帝だった溥儀という人を

  執政(のちの皇帝)に置いて、中国東北地方に満州国を作った

 

 ・リットン調査団は、軍事行動が自分達を守るためのものであるという日本の主張をしりぞけた

  ※この主張のしりぞけを、国際連盟も支持した

   =そのため、日本は1933年3月に、国際連盟脱退を通告された

 

 ・この後、日本の侵攻は、熱河方面に向かっていった

  ※一時は、長城を超えて北京にせまり、華北支配を狙うようになった

  →華北支配と並行する形で、一部の軍人はテロやクーデタ事件を起こして、

   国内での影響力を強めようとした

   ※代表的なテロやクーデタに、

    1932年の五・一五事件、

    1936年の二・二六事件などがある

 

 ・日本軍は、1935年に、防共の名目で内モンゴルと華北に侵攻した

  →その時日本は、河北省東部に国民政府から分離した冀東防共自治政府を設置させた

 

 

 

 ・一方で中国は、1928~30年に関税自主権回復を達成したことで、国民政府が力を得た

  →この時に、国内の政治的かつ軍事的な統一を目指した

   =そのため中国は、満州事変などの日本の軍事行動への対応よりも、

    共産党との戦いに力を入れた

 

 ・1934年に、瑞金という人を中心とする共産党軍は、国民政府軍の攻撃を受けて、

  延安を中心とする奥地の陝西省と甘粛省を目指す長征というのを実行した

  ※この動きの過程で、共産党内の毛沢東の指導力が高まっていた

 

 ・1935年に、国民政府はイギリスとアメリカ合衆国の援助で通貨を統一した

  ※今まで中国の通貨は基本的に銀で、紙幣を各銀行が発行していたため、

   通貨の価値や範囲が不安定だった

   →そこで国民政府は、銀を禁止して、ポンドに連動した四大銀行が発行する銀行券を

    国内通貨として定めた

 

  =これら一連の動きによって、中国の地方の軍閥の力が弱められ、

   国内統一への方向がさらに進んでいった

 

 

 

 ・満州事変をきっかけに中国の抗日運動が全国に広まっていった

  →そこで中国は、1935年8月に中国共産党が八・一宣言を出して、

   内戦の停止と民族統一戦線の結成を呼び掛けた

 

 ・西安にいた張学良という人は、上のような状況を見て、共産党への攻撃を促した蒋介石を

  捉えて、日本への対抗と内戦の停止を説得した

  =この出来事を西安事件という

   →西安事件の時に、蒋介石は説得を受け入れたため、その後に国共がふたたび接近した

 

 

 

ポイント

・満州事変についておさえる

 

このあたりが今回のポイントです  

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