協調外交の転換について
協調外交の転換について考えてみます
・強調外交の転換について
・浜口雄幸内閣は、協調外交の考え方を復活させようとした
→そのため、外務大臣に幣原喜重郎をもう一度使った
・日本は、中国との関係を改善することを考えた
→そのため、1930年に中国と日中関税協定という協定を結んだ
※この時に、条件付きではあるが中国に関税自主権を認めさせた
・当時の日本は軍縮の方針があった
→そのため、日本は1930年に、ロンドン海軍軍縮会議という会議に参加した
=この会議で決められた条約を、ロンドン海軍軍縮条約という
※ロンドン海軍軍縮条約の内容
・ワシントン海軍軍縮条約の時に決められた主力艦の建造の禁止を5年延長した
・ワシントン海軍軍縮条約の時に除外された補助艦(潜水艦、巡洋艦、駆逐艦)の
保有量が決められた
・ワシントン海軍軍縮条約の日本の要求だったイギリスとアメリカの補助艦の
保有率を約7割にすることを認められた
・一方で、大型巡洋艦のアメリカの保有量に対する日本の保有量を
7割をキープすることは認められなかった
→このような内容で、政府は条約の調印を行った
※ただし、海軍軍令部の部長は反対していた
・これに対して、野党立憲政友会、海軍軍令部、右翼などが、
海軍軍令部の部長の反対を押し切って政府が兵力の量を決めたのは、
統帥権の干犯であるとして、激しい攻撃をした
=この問題を、統帥権干犯問題という
※統帥権の干犯について
・統帥権(軍の最高指揮権)は天皇が持っている
・統帥権は内閣が担当する一般国務から独立している
・統帥権を発動させるためには、参謀本部の総長と海軍軍令部の部長が直接関わった
・ロンドン海軍軍縮条約を認める時には、枢密院の承認が必要だった
→政府は、海軍軍令部と枢密院の2つの国家機構との対決を
せまられることになった
・政府は、枢密院に同意してもらってロンドン海軍軍縮条約を
調印してもらうことに成功した
※しかし、同年11月に浜口雄幸首相が東京駅で、右翼の青年に狙撃されて
重傷になるという出来事が起きた
→この出来事の次の年に、浜口雄幸内閣が終了して、その後すぐに浜口雄幸が死亡した
ポイント
・強調外交に関する日本の様子を押さえる