大正時代の始まりと大正政変について

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投稿者:       投稿日時:2013/10/28 12:48      
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大正時代の始まり大正政変について考えてみます

 

 

・大正時代の始まりと大正政変について

 

 

 ・1911年の第2次西園寺公望内閣が出来た時は、国家財政が悪い状態だった

  

 

 ・このような状況の時に、中国の辛亥革命を見て興奮した日本の陸軍が、

  朝鮮が日本に反抗してきた時の対策ということで

  朝鮮に置くために、師団を2個増やすことを政府に求めた

  

  →お金が無いことを理由に、西園寺内閣は師団を2個増やす要求を拒否したため、

   政府や与党(立憲政友会)と陸軍が対立することになった

   ※この対立の時に、国民は陸軍の勝手な行動に怒っていた

 

   ※当時の陸軍と海軍について

    ・1907年の帝国国防方針という方針で、

     陸軍は17個ある師団を25個に増やすことと、

     海軍は八・八艦隊を作ることを長期的な目標にした

     →しかし、実現したのは、後に出てくるように陸軍の師団が2個増えただけだった

     →海軍は予算を得ることすら難しかった 

      ※八・八艦隊・・戦艦8隻と装甲巡洋艦8隻のこと

 

 

 

 

 ・1912年7月に、明治天皇が亡くなった

  →その時に、大正という時代が始まった

 

 ・美濃部達吉という人が1912年に「憲法講話」という本を出して、

  天皇機関説や政党内閣論などを提唱した

  ※天皇機関説・・統治する権利は国家にあって、天皇は国家の最高機関であるから

          憲法に従って統治する権利(統治権)を使うべきだと解釈する

          考え方のこと

   政党内閣論・・議会で多くの議席を占めた政党を中心にして

          内閣を作るべきという考え方のこと

 

  →時代が大正へ変化したことや、美濃部達吉が出てきたことなどについて、

   当時の国民は新しい政治を期待していたと言われている

 

 

 

 

 ・1912年の終わりに、師団を2個増やすことが閣議で認められなかったことに怒って、

  陸軍のトップだった上原勇作という人が一人で辞表を大正天皇に出して辞める

  という出来事が起きた

  →この時に陸軍は、軍部大臣現役武官制を理由に、上原勇作の後を推薦しなかった

   =そのため、西園寺内閣が総辞職に追い込まれるという事が起きた

 

  →その後、長州藩の長老の桂太郎が、就任したばかりの内大臣と侍従長という役職を辞めて、

   第3次桂太郎内閣を作った

   ※この時に、桂太郎が宮中の職から首相になったことで、

    藩閥勢力が大正天皇を擁護して政権の独占を考えているという批判が起きた

 

  →第3次桂太郎内閣が出来たことに対して、立憲国民党の犬養毅と

   立憲政友会の尾崎行雄という2人を先頭にした野党の勢力やジャーナリストに、

   都市の民衆や商工業者なども加わって、「閥族打破・憲政擁護」を

   スローガンにした運動が全国で行われた

   =この運動のことを、第一次護憲運動という

 

    ※閥族打破・・身分の高い一族を倒すこと

     憲政擁護・・官僚政治や閥族政治を反対して、立憲政治を擁護すること

  

 

 ・第一次護憲運動に対して、桂太郎は新しい政党を自分で作って対抗しようとした

  ※しかし、護憲運動はどんどん拡大していった

   →そのため、1913年に人々が議会を囲む状況で、

    約50日で第3次桂太郎内閣が終了した

    =この出来事を大正政変という

 

   ※新しい政党については、桂太郎が亡くなった後の1913年に、

    立憲国民党から抜けた人達も加わり、トップに加藤高明という人を置いて、

    立憲同志会という団体を作った

 

 

 

 

 ・第3次桂太郎内閣の後に、薩摩出身の海軍の大将だった山本権兵衛という人が

  立憲政友会を内閣にして首相になった

  

  →山本権兵衛内閣は、以下のようなことを行った

   ・行政整理を行った

   ・文官任用令を改正して、政党のメンバーでも高級官僚になれるようにした

   ・軍部大臣現役武官制を改正して、資格を予備役や後備役といわれた人達まで広げた

    ※現役武官は陸軍省と海軍省に人事権があり、予備役と後備役については、

     首相が軍の考えや意見を無視して大臣を選ぶことが出来た。

     しかし、実際に選ばれたことはない

 

  →このような政策を取ることで、官僚や軍部に政党の影響力を広げようとした

 

  →しかし、1914年にジーメンス事件が発覚するということが起きた

   =そのため、都市の民衆の反感を買い、山本権兵衛内閣は責任を取って終了した

    ※ジーメンス事件・・ドイツのジーメンス社という会社と日本の海軍高官との間で

              賄賂の受け渡しがあったことが発覚した事件のこと

 

 

 

 

 ・上のような状況で、山県有朋を中心とした元老の人達が、

  言論の世界や民衆などに人気の高かった大隈重信を急きょ山本権兵衛の後の首相に

  持ってきたことで、第2次大隈重信内閣が始まった

  

  ※大隈重信はすでに政界から引退していたが、山県有朋などの元老が

   強引に大隈重信を起用した

   →大隈重信を起用することで、藩閥に反対するムードを鎮めて、

    自由党からの敵である立憲政友会にダメージを与えようとする狙いが

    あったと言われている

 

 

 ・第2次大隈重信内閣は、長州藩や陸軍の支援に支えられつつ、

  立憲同志会を少数の与党としてスタートした

  →1915年の総選挙の時は、立憲同志会などの与党が立憲政友会に

   圧勝するという状況になった

   ※この勝利の結果、ついに陸軍の2個師団増設案が議会で通って、認められた

 

 

 

ポイント

・大正時代の流れを押さえる

・大正政変の様子を押さえる

 

このあたりが今回のポイントです

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