ワシントン会議と協調外交について

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投稿者:       投稿日時:2013/10/28 13:23      
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ワシントン会議と協調外交を中心に、当時の様子を考えてみます

 

 

・ワシントン会議と協調外交について

 

 

 ・第一次世界大戦後、ドイツは賠償金が多額になり、イギリス、イタリア、フランスの

  戦勝国が、戦争のためにアメリカから借りたお金を返さなければいけない、

  という状況になり、多くの国が勝ち負けに関わらず苦しくなった

 

   →上のような状況のため、アメリカは、ドイツを援助して復興させて、

    ドイツから賠償金をもらったイギリス、イタリア、フランスが

    賠償金でアメリカから借りたお金を返して、

    そのお金でドイツを援助して・・

    という状況が必要だった

 

 ・一方で、日本の中国進出、ソビエトの状況、中国や朝鮮での民族運動の登場など、

  極東をどうするかを考える必要が出てきた

 

 →このような状況に本格的に対応していくために、1921年にアメリカが国際会議を開いた

  =この会議をワシントン会議という

 

   ※ワシントン会議でのアメリカの目的

    ・アメリカ、イギリス、日本で軍艦を作る競争のようなことを行っていたが、

     その競争を終わらせてアメリカの財政の負担を減らす

    ・東アジアでの日本の力が拡大し過ぎるのを防ぐ

 

   ※ワシントン会議に、日本は加藤友三郎や幣原喜重郎などの人達を送った

 

 

 

 ・ワシントン会議の内容について

 

  ・アメリカ、イギリス、フランス、日本の間で、太平洋諸島の現状の維持と、

   太平洋に関する問題を戦争などではなく、話し合いで決めることを決めた

   =この条約を四カ国条約という

    ※この条約が出きたことで、日英同盟が無くなった

  

  ・1922年に、四カ国条約の国に、中国と中国で権益を持っている

   4つの主要国との間で、中国の領土と主権の尊重と、

   中国でそれぞれの国が経済面で門戸開放と機会均等を認めることを決めた

   =この条約を九カ国条約という

    ※この条約が出来たことで、石井・ランシング協定が無くなった

 

  ・1922年に、アメリカ、イギリス、イタリア、フランス、日本の5カ国の間で、

   今後10年間は主力艦(戦艦、巡洋戦艦、航空母艦)を作らないこと、

   主力艦をそれぞれの国が持つ比率を

   アメリカとイギリスが5、日本が3、フランスとイタリアが1.67とすることを決めた

   =この条約をワシントン海軍軍縮条約という

   

  ・1922年に、ワシントン会議の場で日中間の交渉が行われた

   →九カ国条約にもとづいて、山東半島のドイツの利益を中国に返す条約も結ばれた

 

 

  →上のような国際協定は、戦争が再発することの防止と、

   国どうしの間での協調を意識されていて、

   それらにもとづいてアジアと太平洋地域の新しい国際の秩序を作ろうとした

   =この体制のことを、ワシントン体制という

 

 

 

 ・日本は、原敬が暗殺された後にできた立憲政友会の高橋是清内閣が

  ワシントン体制を積極的に受け入れていった

  →高橋是清は、協調外交(周りの国と協力し合う)の土台を作ろうとした   

   ※この後に出てきた加藤友三郎内閣と第2次山本権兵衛内閣も

    協調外交のスタイルを引き継いだ

 

  ※日本が協調外交を取った背景に、以下のようなことがあったと言われている

   ・アメリカがウィルソン大統領の理想主義的な外交から、

    現実を意識した外交に方針を変えた

   ・1920年代の日米関係が非常に優れていた

 

 

 ・1924年に、護憲三派によって加藤高明内閣という内閣が出来た

  →その時に、今まで立憲政友会側の協調外交に反対していた憲政会が

   賛成の立場に回った

   =その結果、当時の外務大臣だった幣原喜重郎という人を中心に

    幣原外交という協調外交を進めた

 

 

 ・幣原外交は、平和と正義を基本にして、「世界の大勢」に合わせるようにすることで、

  経済面を重視した外交が特徴だった

 

  ※幣原外交は以下のことを意識して行った

   ・1922年に北樺太という場所を除いて、シベリアに出兵した兵隊を日本に連れ戻した

   ・ソ連との関係を改善することを意識して、1925年に日ソ基本条約を結んで、

    ソ連との国交を作った

    →その時に、北樺太から兵隊を日本に戻す代わりに、

     北樺太の油田の半分を開発する権利を日本が得た

 

  ※中国に関しても干渉しないようにしていたが、経済的な問題については、

   中国に介入することも考えた

   →さらに、反日運動が中国で起きることがあったため、

    日中の関係が決して安定したとは言い切れなかった

 

  ※1925年には、上海で日本人が経営している在華紡という紡績工場で、

   中国人労働者の待遇を改善することを求めるストライキが起きたが、

   この時のストライキが流血するレベルまでの騒動になってしまった

   →そのため、この出来事をきっかけに、労働者や学生などが

    大規模な反帝国主義のための運動が起き、中国全土にまで広がっていった

    =この出来事を五・三十事件という

 

 

 

 ・協調外交の時に海軍軍縮が成功したが、この影響は非常に大きかったと言われている

  →この時に、古い軍艦の処分や、戦艦を作ることの中止などが決まった

 

 ・陸軍では、加藤友三郎内閣の時に、山梨半造陸軍大臣の山梨軍縮が行われたり、

  加藤高明内閣の時に、宇垣一成陸軍大臣の宇垣軍縮が行われたりした

  →その結果、兵員を9万3000人削ったり、兵器を近代化させることができたりした

   ※当時は、50%近くあった軍事費が、27%にまで下がった

 

 

ポイント

・ワシントン体制の内容を押さえる

・強調外交の状況を押さえる

 

このあたりが今回のポイントです

 

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