満州事変について
満州事変について考えてみます
・満州事変について
・中国で国権を回収するための民族運動が盛り上がり始めていた時期があった
→その時に、日本国内では軍や右翼(保守的な考え方)が幣原喜重郎の協調外交を
軟弱外交と批判した
→同時に、「満蒙の危機」が叫ばれるようになった
※満蒙の危機・・満州と内蒙古が不安定な状態になること
・満蒙に対する危機感を強めた関東軍は、中国が国権を回収する運動が
満州にまで広がるのを、武力を使って阻止した
→この時に、長城という地域よりも南側で中国の権利が及んでいる範囲から、
満州を切り離すことで、満州を日本の支配下に置くことを計画した
・関東軍は、参謀の石原莞爾という人を中心にして、1931年9月18日に
奉天という地域の郊外の柳条湖という場所で、南満州の線路を爆破する
という事件を起こした
=この事件を柳条湖事件という
※この時に石原莞爾は、日本とアメリカの間で「世界最終戦争」という
戦争が行われて、皆殺しになるレベルの戦争になるだろうと予言していたため
満州を占領して世界最終戦争に備えるべきだと主張していた
→日本は、柳条湖事件の犯人は中国軍だとして、軍事的な行動を始めた
=ここから始まる軍事的な行動を、満州事変という
・当時内閣だった、立憲民政党の第2次若槻礼次郎内閣は、
軍の行動を広げない方針を宣言した
※しかし、マスコミや世論は戦争に対する勢いが激しく、
日本の軍の行動を支持していた
・関東軍は、満州全てを制圧するために関東軍の行動範囲を広げていった
※このような状況をどうすることもできないと考えた第2次若槻礼次郎内閣は
総辞職をした
・満州での関東軍の軍事的な行動は、中国の人達の日本を排除する運動をより激しくさせた
→そのため、1932年には上海でも日本軍と中国軍が戦うということもあった
=この戦いを第1次上海事変という
・この後、1931年12月に立憲政友会のトップだった犬養毅という人が内閣を作った
→この時に犬養内閣は、中国と直接交渉することを目指した
・1932年に、関東軍は満州の重要な土地を占領した
→3月には、清の最後の皇帝だった溥儀という人をトップに置いて、
満州国を作ることを宣言した
・アメリカは、日本の一通りの行動に対して不承認宣言という宣言を出した
→そこで、中国からの訴えと日本の提案で、国際連盟の理事会が
事実を調査することにした
→そのため、イギリスのリットンという人を団長とする調査団を
満州、中国、日本のそれぞれに派遣することにした
ポイント
・満州事変の流れについて押さえる
このあたりが今回のポイントです