第二次世界大戦の始まりについて
第二次世界大戦の始まりについて考えてみます
・第二次世界大戦の始まりについて
・ヨーロッパで、ナチス=ドイツが積極的にベルサイユ体制を終わらそうとしていた
→そこで、1938年にオーストリアを植民地にして、
その後にチェコスロヴァキアに侵略を始めた
・上のような状況でドイツは、日本の第1次近衛文麿内閣に対して
「日本とドイツの防共協定を強化して、ソ連、イギリス、フランスを仮に敵国であると
想定する軍事同盟」を結ぶことを提案した
※第1次近衛文麿内閣は、この提案に答えを出さないまま終わってしまった
→そこで、次に1939年の初めに、平沼騏一郎という枢密院の議長が
内閣を作った
・平沼騏一郎内閣の時、ドイツの軍事同盟の提案に乗るか乗らないかで、
内閣の中に対立が出来た
→すると、1939年8月に突然、ドイツがソ連と独ソ不可侵条約
(ドイツとソ連がお互いに相手の領土や政治などを尊重する条約)という条約を結んだ
=この条約が出来た時に、国際情勢の変化に対応できていないという理由で
平沼騏一郎内閣は総辞職をした
※日中戦争の時に、日本はソ連の出方を警戒していた
→その状況で、2つの事件が起きた
・1938年に、ソ連の東部と満州国の国境が明確でない地域で
ソ連軍と戦うということが起きた
=この出来事を、張鼓峰事件という
・1939年5月に、満州国の西部とモンゴル人民共和国の国境の地帯で、
ソ連とモンゴルの連合軍と戦ったが、ソ連の大量の戦車の軍団によって
大ダメージを受けるということが起きた
=この出来事を、ノモンハン事件という
→日本は、上のような状況の時に、独ソ不可侵条約が結ばれたことを聞いたため、
衝撃を受けた
・1939年9月1日に、ドイツがポーランドへの侵略を始めた
→すると、すぐにイギリスとフランスがドイツに宣戦布告をした
=ここから始まった、世界レベルでの大きな戦争を、第二次世界大戦という
※平沼騏一郎内閣の後に出てきた、阿部信行内閣と米内光政内閣は、
ドイツとの軍事同盟には積極的ではなかった
=そのため、ヨーロッパで起きている戦争には介入しない方針を取り続けていた
・一方で日本は、日中戦争が始まってから、日本が必要とする軍需産業のための資材が
円ブロックの範囲だけでは足りなくなった
→そのため、欧米とその周りの国々から輸入をしなければいけない状況になった
※円ブロック・・植民地を含めた日本の領土、中国にある日本の占領地、
満州で出来ている経済圏のこと
・そのころアメリカは、アジアと北太平洋の地域との自由な貿易を行う関係を
維持することはアメリカにとって重要であり、アメリカの利益になると考えていた
→そのため、日本が「東亜新秩序」の形成を始めようとすると、
アメリカは日本の行動が、アメリカが行おうとしている東アジア政策に対する
挑戦だと捉えて、日本とアメリカの間の貿易を減らした
→さらに、日本とドイツとの間で軍事同盟が結ばれたことが
アメリカに伝えられた時は、アメリカは1939年7月に、
日米通商航海条約の撤廃を日本側に伝えた
※そのため、日本は軍事に関する資材を得ることがとても難しくなった
・ヨーロッパでは、ドイツが圧倒的に有利になり、なんとかイギリスだけが
ドイツに抵抗し続けている状況だった
→その状況を知った日本は、陸軍を中心にしてドイツとの交流を深めた
=そして、アメリカやイギリスとの戦争を覚悟した上で欧米の植民地だった南方に行き、
「大東亜共栄圏」を作ろうとした
※この時に、大東亜共栄圏で石油、ゴム、ボーキサイトなどの資源を得よう
という考えが急激に盛り上がった
→大東亜共栄圏の建設に対して、議会や政界の上の人達は、
以下のような反対をしていたため、反対の空気はあった
・1940年に立憲民政党の議員だった斉藤隆夫という人は、議会で軍部と政府が
中国で進めている戦争の政策を批判する演説(反軍演説)を行ったが、
軍部の力によって議員から名前を消された
・政界の上の方にいた「親英米派」と言われた人達が、軍部から批判や攻撃をされた
※しかし、これらの動きに、大東亜共栄圏の建設の流れを変える力はなかった
→結局日本は南方に行ったが、南方に行ったことで逆に欧米の日本に対する
経済封鎖が強くなった
※経済封鎖・・ある国の経済に関する交流を制限したり、遮断したりして、
経済的に孤立をさせること
ポイント
・第二次世界大戦までの流れを押さえる
・第二次世界大戦の時の二本を中心とした世界の様子を押さえる
このあたりが今回のポイントです