第二次世界大戦の時の人々の生活と社会の様子について
第二次世界大戦の時の人々の生活と社会の様子について考えてみます
・第二次世界大戦の時の人々の生活と社会の様子について
・太平洋戦争が始まってすぐに、日本政府は、以下のような政策を取った
→・国民のために製品を作っていた工場を、軍事のための工場に切り替えさせた
=このようにして、軍事の生産を最優先とする政策を取った
・一方で、国民に対しては生活をギリギリまで切り詰めさせた
=このようにして、国民を兵力や労働力として強引に利用していく政策を取った
・1943年に、学徒出陣と勤労動員という2つの政策を取った
※・学徒出陣
→文系の大学生や専門学校などの学生を中心に、徴兵までの猶予が無くなり、
軍に集められる政策のこと
・勤労動員
→学校に残る学生や、女子挺身隊(物事を達成するために全力で取り組む組織)に
組み込んだ女子などを強制的に軍需工場などで働かせる政策のこと
・朝鮮や中国に対して、以下のような政策を取った
→・数十万人の朝鮮人や占領した地域の中国人を日本に強制的に連れてきて、
鉱山や土木などで働かせるという政策を取った
→朝鮮では1943年に、中国では1944年に
徴兵制(国民に兵役の義務を命じる制度のこと)が出された
※しかし、すでに1938年から志願兵制度という制度で、
植民地からも兵隊を募集していた
・戦地に「慰安施設」というものを作り、そこに朝鮮、中国、フィリピンなどの
女性を集めて施設に入れた
=このようにして連れてこられた女性を、従軍慰安婦という
※従軍慰安婦・・軍人や軍に所属する人に、性的な奉仕をした人達のこと
・当時の戦争では、軍隊にされた男子は400万~500万人ほどいた
→そのため、日本国内で生産のために必要な労働力が圧倒的に足りなくなった
※さらに、日本は制海権と制空権(海上や空中を軍事的に支配する権利)を
失ってしまっていた
=そのため、軍需に必要な石炭、石油、鉄鉱石などの物資も足りなくなった
・衣料に関して、総合切符制という制度が用意された
→この制度によって、切符が無いと衣服を買う事が出来ないようになった
※しかし、日本国内の生産の不足が影響して、切符があっても衣料自体がない
という状況だった
・成人1日2.3合(330g)のお米の配給は、いもや小麦粉などの代用品で
配給される割合が増えて行った
※戦争が始まって1年後の世帯調査の時に、購入した回数の中で闇取引だったものが
穀物は3分の1以上、乾物、生の魚介、野菜や青物は約半分だった
※日本の占領地でもモノがなく、欲しい人は増え続けたので物価が急激に上昇し続けた
・1944年後半から、サイパン島の基地からアメリカの飛行機が飛んできて、
日本の本土を襲うことが増えた
=このような行動を、本土空襲という
→空襲は、最初は軍需工場を壊すことが目的だったが、国民の戦う意欲を失わせる
という目的で、都市を無差別に爆撃するようになっていった
→都市では、空襲への対策として、以下のようなことが行われた
・建築物を強制的に取り壊したり、防空壕を作ったりする
・軍需工場を地方に移転させる
・住民が親戚の家などに疎開する
・国民学校の生徒を集団で疎開させる(集団疎開)
・1945年3月10日に、東京大空襲という出来事が起きた
→その時に、約300機のB29爆撃機が下町の人口の多いところを中心に、
約1700トンの焼夷弾という爆弾を落としたため、
一日で約10万人が亡くなったと言われている
※空襲は、全国の小さな都市に対しても行われ、重要な生産施設が壊された
ポイント
・当時の社会と人々の様子を押さえる
このあたりが今回のポイントです