敗戦について
日本の敗戦までの流れについて考えてみます
・敗戦について
・1944年10月に、アメリカ軍はフィリピンを奪い返すために、レイテ島という
ところに上陸して激しい戦いを行い、その結果勝利して、フィリピンを占領した
※レイテ沖というところで、日本の艦隊はアメリカの艦隊に負けていて、
この敗北によって日本海軍の作戦能力を失った
→そのため、この時に初めて海軍の神風特別攻撃隊による、直接的な攻撃が行われた
・1945年3月に、アメリカ軍が硫黄島というところを占領した
→さらに、1945年4月に沖縄本島に上陸して、沖縄の人々を巻き込んで
約3か月戦い、沖縄本島を占領した
=この時の沖縄での戦いを沖縄戦という
→上のような状況になり、日本が負けることが少しずつ確実になってきていた
・アメリカ軍が沖縄に上陸してすぐの時に、小磯国昭内閣が終了して、
鈴木貫太郎という人が次の内閣を作った
・ヨーロッパでは、1943年に連合国軍が反撃の姿勢に入った
→そのため、1943年9月にイタリアが負けを認めた
→その後、1945年5月にドイツが負けを認めた
=結果的に、枢軸国側が日本だけになり、日本は完全に孤立する状況になってしまった
※この時に、軍部はまだ本土での戦いを願っていたが、鈴木貫太郎内閣は
軍部の意見を取り入れず、ソ連に日本とアメリカとの和平交渉(仲直りするための交渉)
の仲介をしてもらうことをお願いしようとしていた
・しかし、1945年2月には、クリミア半島のヤルタというところで、
アメリカ、イギリス、ソ連の3カ国のトップが集まって、ヤルタ会談という
話し合いを行っていた
※ヤルタ会談の内容
・ドイツを戦後どうするかについて話し合う
・ドイツが負けを認めてから2~3ヵ月後にソ連が日本と戦う
・ソ連に南樺太を返す代わりに、千島列島に譲る
・旅順、大連の港を自由に使えるようにする など
→この会談の時に、これら一連の内容をお互いに認め合う協定を結んだ
=その協定を、ヤルタ秘密協定という
→ヤルタ会談の後、アメリカ、イギリス、ソ連の3カ国は、1945年7月に
ベルリン郊外のポツダムというところで会談を行って、ヨーロッパの戦後を
どうしていくかということを話し合っていた
→ポツダムでの話し合いをきっかけに、アメリカは日本を今後どうするかということについて、
イギリスに考えを提案していた
=その結果、アメリカ、イギリス、中国の3カ国の名前で、日本軍に無条件で負けを
認めてもらうことと、日本の戦後をどうするかについて提唱した、
ポツダム宣言というものを出した
※ヤルタ会談の前に、カイロ宣言という宣言を出していた
・カイロ宣言
→・1943年に、アメリカ大統領のフランクリン=ローズヴェルト、
イギリス首相のチャーチル、中国国民政府主席の蒋介石の3人がエジプトのカイロ
というところで会談をして、いくつかのことを決めた
→・日本が無条件で負けを認めるまで、連合国は徹底的に戦う
・満州、台湾、澎湖諸島を中国に返す
・朝鮮を独立させる
・南洋諸島を取り上げる など
=これらの内容をまとめて宣言したものを、カイロ宣言という
※カイロ宣言は、ポツダム宣言の基盤にもなったと言われている
・ポツダム宣言に対して、日本は「黙殺する」(無視して対応しないこと)と表現した
→この表現に対してアメリカは、日本はポツダム宣言を拒絶したと判断した
→そこでアメリカは、人類史上初作られた2発の原子爆弾を使うことに決めた
=そのため、8月6日に広島に、8月9日に長崎に原子爆弾が落とされた
→さらに、8月8日に、ソ連が日ソ中立条約を無視して日本に宣戦布告した
※この時にソ連は満州と朝鮮に侵入して攻撃を行った
=その結果、関東軍は壊滅してしまい、多くの人が亡くなり、生き残った人も
苦しい展開になり、多くの中国残留孤児を生むことになった
・陸軍は、上のような状況であっても、この後も本土での戦いをすることを提唱していた
=しかし、昭和天皇の判断によって、結果的にポツダム宣言を受諾することが決められた
→8月14日に、政府は連合国側にポツダム宣言を受諾したことを伝えた
・8月15日の正午に、天皇のラジオ放送で戦争の終了が全ての国民に伝えられた
・9月2日に、東京湾内にあったアメリカ軍艦ミズーリ号の上で、
日本政府と軍の代表が降伏の文書に署名した
=こうして、4年続いた太平洋戦争が終了した
ポイント
・敗戦の時の様子と流れを押さえる
このあたりが今回のポイントです