大日本帝国憲法について -出来るまでの流れ-
大日本帝国憲法を中心に当時の様子を考えてみます
・憲法の誕生について
・政府は、明治十四年の政変の時に、天皇と政府に権力が集中する憲法を作ることを決めた
→そこで、1882年に伊藤博文などをヨーロッパに派遣して、憲法の調査をさせた
※伊藤博文は、ベルリン大学のグナイストとウィーン大学のシュタインから
ドイツの憲法の理論を勉強して憲法を作る準備を始めた
・憲法を作るためにどのような準備を行ったのか
・1884年に、華族令という法律を作った
→この法律によって、以下のようなことが決められた
・華族を公、侯、伯、子、男という5爵の身分階級に分けて、それぞれの資格を細かく決めた
・国家に貢献した人は華族になれるようにした
=華族令を作ることで、将来の上院(貴族院)を作ろうとしていた
・1885年に太政官制をやめて、内閣制度にした
→内閣制度によって、以下のような変化が起きた
・それぞれの省の長官が国務大臣として自分の省の仕事に関して
天皇に直接責任を負うことになった
・国務大臣は、総理大臣のもとに閣議の一人として直接参加することになった
・宮中(天皇の住まい)の事務を担当する宮内省(宮内大臣)は、
内閣の外に置かれることになった
・天皇御璽(天皇の印)と日本国璽(日本国の印)を持っていて、
天皇の政治の補佐を担当する内大臣が宮中に置かれることになった
→今までは区別がなかったものの、内閣制度によって、
制度的に行政府と宮中が区別されることになった
※ただし、初代総理大臣の伊藤博文は総理大臣と宮内大臣を両方担当した
・山県有朋という人が、ドイツ人顧問のモッセという人の助言をもらって、
地方制度を改革した
→どのような改革を行ったのか
・1888年に、市制と町村制という制度が作られた
※市制と町村制について
・市制・・人口2万5千人以上の都市を市として、
市を郡と同じ行政区域にする制度のこと
・町村制・・今までの町村を大量に合併させて新しい町村を作る制度のこと
・市長は、市会という会が推薦する候補者の中から内務大臣が
任命することで決められた
・市参事会というところが行政を行った
・町村長は、基本的に無給だった
・町村長は、公選で決められた
・1890年に、府県制と郡制という制度が作られた
※府県制と郡制について
・府県制・・府と県を統合する制度のこと
・郡制・・郡長と郡参事会というところが行政を行い、町村会議員の投票と
大地主の互選によって選ばれる郡会が議決を
担当することにした制度のこと
・府県会は郡会の議員の投票によって選ばれていた
→このような地方の改革で、地方自治の制度が一応誕生した
・1886年に、政府の憲法草案(憲法の原案)を作る作業が、国民に極秘で行われた
→憲法草案は、ドイツ人顧問のロエスレルという人などの助言をもらいつつ、
伊藤博文、井上毅、金子堅太郎、伊藤巳代治などが担当して作った
→この時の憲法の草案は、天皇が出席している状況のもとに枢密院という機関で作られた
=その結果、1889年2月11日に大日本帝国憲法(明治憲法)が公布された
※枢密院・・1888年に、憲法、条約、会計などについて、
天皇が意見を求めてきた時に答えるために作られた機関
ポイント
・大日本帝国憲法が出来るまでの流れを押さえる
このあたりが今回のポイントです