中国分割と日英同盟について
中国分割と日英同盟について考えてみます
・中国分割について
・欧米の国々は、日清戦争の様子を見て清が弱いことを知った
→そこで、欧米の国々は清に勢力をどんどん広げていった
=この出来事を中国分割という
・中国分割の様子について
・1898年に、ドイツが山東半島の膠州湾というところを一定期間借りた
・その後、ロシアが遼東半島の旅順と大連港を一定期間借りた
・その後、イギリスが九竜半島と威海衛を一定期間借りた
・1899年に、フランスが広州湾というところを一定期間借りた
→それぞれの国は、借りた場所を拠点にして鉄道の建設などを行った
※アメリカは中国分割を直接は行わなかった
→その代わり、1898年にハワイとフィリピンをアメリカのものにした
・上のような状況で、アメリカの国務長官のジョン=ヘイという人が中国について、
門戸開放と機会均等を提案してそれぞれの国の勢力が広がっている範囲での
貿易の自由を求めた
※・門戸開放・・港や市場を開放して、経済活動の制限を無くすこと
・機会均等・・外国との経済活動の時に、どの国に対しても同じ待遇をすること
※アメリカは、1823年に当時の大統領のモンローという人が、
ヨーロッパの問題に介入しない代わりにアメリカに対してヨーロッパの国々が
介入してくることを拒否するという宣言を出した
=この宣言をモンロー宣言という
→しかし、アメリカは門戸開放宣言によって、モンロー宣言の外交スタイルを変えた
・1900年に、清で「扶清滅洋」(清を救って西洋を倒す)という考え方を
持っている義和団という団体が勢力を広げてきた
→義和団は清の様々な場所で外国人を襲って、北京にあった列国公使館を包囲する、
ということを行った
=この出来事を義和団の乱という
→清の政府は、義和団を推奨して、多くの国々に宣戦布告した
=この出来事を北清事変という
・北清事変に対して、日本を含む多くの国々は、連合軍を作って清に派遣した
→その結果、義和団を北京から追い出して清に敗北宣言をさせた
=そこで、1901年に清は北京条約という条約を結んだ
※北京条約について
→この条約によって、以下のようなことが決まった
・清は多くの国々に、賠償金を払う
・首都の北京にある公使館の地域で治外法権を認める
・公使館を守るための兵隊を置く など
・清が敗北したことによって、清についていっていた朝鮮に影響を与えることになった
→朝鮮は、ロシアに支援されて日本と対立する動きが強まった
=そのため、朝鮮で親露政権(ロシアに友好的な政権)が誕生した
※親露政権はどのようにして出来たのか
・親日政権が三国干渉の後に、閔妃という人を中心とした親露派に倒された
・韓国に駐在する日本の公使の三浦梧楼という人は親日派を擁護しようとして、
公使館の兵隊に王宮を占拠させて、閔妃を殺すという事件を起こした
・そこで、王妃を殺された朝鮮の王様の高宗という人はロシア公使館に逃げた
=この時に親露政権が出来た
※親露政権は日本に対抗するという意味もあった
・朝鮮は、1897年に国号を大韓帝国(韓国)に変えた
・日英同盟について
・北清事変をきっかけにロシアは中国東北部(満州)を占領して、
満州の権益をロシアが独占するようになった
・日本は、韓国とつながっている中国東北部がロシアのものになると、
日本の韓国での利益が奪われる可能性があると考えるようになった
→そこで、日本はロシアとどのような関係を保つべきかということについて
議論されるようになった
※議論はどのようになったのか
・ロシアとの関係については、2つの考え方が出てきた
→・日露協商論・・ロシアとの「満韓交換」を交渉しようとする考え方
※満韓交換・・ロシアに満州を自由にさせる代わりに、
日本が韓国に対する優越権を渡すという考え方
・対露強硬方針・・イギリスと同盟を結んで実力で韓国の権益をロシアから守る考え方
→日本は、対露強硬方針を取った
=そこで、日本は1902年に日英同盟協約(日英同盟)を結んだ
※日英同盟で決められた内容
・日本とイギリスがお互いに清と韓国の独立と領土の維持を認めあう
・清における日本とイギリスの利益と、韓国での日本の政治、経済、産業
などの利益を認める
・もし日本とイギリスのどちらかが他の国と戦った場合、
もう一方の同盟国は中立の立場を守り、
もし第三者の国が参戦してきたら、もう一方の同盟国も参戦する
・日英同盟を結んでも、ロシアは満州に兵隊を置き続けた
→そのため、日本はロシアとの交渉を続ける裏で、
ロシアとの戦争を始める準備を行っていった
・日本国内の一部で、キリスト教徒の内村鑑三や社会主義者の幸徳秋水、堺利彦などの人達が、
非戦論や反戦論(戦争に反対する考え方)を提唱していた
※日本の世論も、最初は戦争に反対だったが、対露同志会などの団体が
戦争を行うことを宣言していたこともあり、
段々と開戦論(戦争に賛成する考え方)に向かっていった
※どのように開戦論に向かっていったのか
・1903年に作られた対露同志会や、戸水寛人などを中心とした
七博士と呼ばれる人達が主戦論を提唱した
・「万朝報」を書いた黒岩涙香や「国民新聞」を書いた徳富蘇峰という人などが、
主戦論を推していった
※戦争が始まってからは、与謝野晶子という人が、「君死にたまふこと勿れ」と
うたう反戦の詩を「明星」という雑誌で発表している
ポイント
・中国分割と北清事変の様子を押さえる
・日英同盟とロシアとの関係を押さえる
このあたりが今回のポイントです