日露対立とそれに伴う各国の動きについて
日露対立とそれに伴う各国の動きについて考えてみます
・日露対立とそれに伴う各国の動きについて
・中国分割の危機に直面していた時に、中国内部では民衆の排外運動が激しくなっていた
・また、中国内部で北京条約が出されたことで、キリスト教の布教が公認された
→しかし、布教活動が活発化すると、各地で反キリスト教運動が起きた
=この反キリスト教運動を仇教運動という
※特に、日清戦争後の欧米列強が華北へ強引に進出したことは、
民衆の民族的な感情を高めたと言われている
・仇教運動の時に、義和団というのが生まれた
※義和団・・山東の自営的郷村組織を土台として生まれた宗教的な武術の集団のこと
→義和団は、「扶清滅洋」を提唱して、鉄道や教会を破壊し、宣教師や信徒を排撃した
→義和団が北京の城内に入ると、清朝の保守排外派が、義和団の運動を利用して
各国に宣戦を布告した
※この時に各国は、在留外国人の保護を名目として共同で出兵を行った
→この結果、日本とロシアを中心とする8か国の連合軍が北京を占領し、
在留外国人を救出した
=この出来事を、義和団事件という
→1901年に負けた清は、北京議定書(辛丑和約)に調印して、
以下のようなことを認めた
・巨額の賠償金を支払った
・外国軍隊の北京の駐屯を認めた
・義和団事件以後、ロシアは中国東北から撤兵せずに、朝鮮への圧力を強めていった
・日清戦争後の朝鮮は、1897年に国号を大韓帝国として皇帝の称号を用いた
→このようにすることで、朝鮮が独立国であることを示した
※ただし日本とロシアは、ともに朝鮮の支配をもくろんで対立を深めていった
・一方で、イギリスやアメリカはロシアの南下政策を警戒していた
※しかし、当時のイギリスは南アフリカ戦争に一杯で、極東に兵を送る力が無かった
=そこでイギリスは、日英同盟を結んで、日本にロシアをおさえさせようとした
※この動きは、アメリカも支援した
・日本は、イギリスとアメリカの経済的な援助を背景に、ロシアに対して強硬方針をとった
→そこで日本は、1904年にロシアに宣戦した
=この宣戦によって起きた、日本とロシアとの戦いを日露戦争という
※日露戦争について
・日本は、奉天会戦や日本海海戦などで連勝したが、長期戦に耐えられるほどの
経済力がなかった
・ロシアは、第1次ロシア革命が起きていたため、社会的な不安が高まっていた
→そのため、日本とロシアは、アメリカ大統領のセオドア=ローズヴェルト
という人が調停を結ばせた
=その結果、1905年にポーツマス条約を結んだ
※ポーツマス条約では、以下のようなことが決められた
・日本が、韓国の指導権と監督権を得た
・遼東半島南部の租借権を得た
・樺太(サハリン)の南半分の領有権などを得た
・南満州の鉄道利権を得た
→日本は、東清鉄道支線の長春、旅順口間の利権を得て、
南満州鉄道株式会社を設立した
・ロシアに対する日本の勝利は、アジアの様々な民族の自覚を高めたと言われている
※その一方で、日本は欧米列強と並んで大陸への帝国主義的な進出を進めていった
・日露戦争後、日本とイギリスは日英同盟を維持しつつ、それぞれロシアと
1907年に日露同盟、英露同盟を結んだ
→これによって、日本の大陸進出が簡単になった
ポイント
・日露戦争についておさえる
・日露の対立に関する各国の動きをおさえる
このあたりが今回のポイントです