19世紀後半の世界の動き② -産業の近代化・植民地獲得競争・欧米の東アジアへの進出-
19世紀後半の世界の動きについてまとめてみました。
大きく「3つの動き」としてまとめてみます。
①欧米での近代国家の成立
②産業の近代化+植民地獲得競争
③欧米が東アジアの国々へ進出
ある意味で全てにつながりがありますが、あえて3つに分けて
それぞれ考えてみます。
(ここでは②と③について取り上げています)
※①についてはこちらです
②産業の近代化+植民地獲得競争
19世紀にイギリスを中心とする西洋の国々で工業化が進んだ
=これを産業革命という
(産業革命の前は、農業が中心の社会だった)
※当時は、農業に機械が導入され、食料の生産がラクになったため農業革命が起きた
→農業革命によって、食料が増えたため、人口が格段に増えた
→一方で、農業の機械化により少ない人口で農業が出来るようになった
=すると、人口は増えるが、農業に必要な人口が減るという状況が起きた
⇒結果、農業以外の余った人達は、ブルジョワ階級のところに行って、工業を行った
※農業に加えて、鉄道や海運など、流通の面でも産業革命が進み、発達した
→すると、人口増加の影響もあって、国内に食料が十分に流通した
→一方で、食料が余るという現象も発生した
=そこで、ヨーロッパの国々は1870年頃から植民地の獲得を目指すようになっていった
※なぜ植民地を獲得しようとしたのか(獲得の狙い)
①余った食料を売るための市場の獲得
②工業に必要な原料の獲得
③余った人口を移動させるための場所の獲得(移民)
=これらを狙って、植民地獲得を目指した
→その結果、「帝国主義」国家が誕生した
③欧米が東アジアの国々へ進出
ヨーロッパの国々は、東アジアの状況に目を付けた
※当時の東アジアは清を中心とする冊封朝貢関係だった
(清を中心とする状況が東アジアにあった)
=これは、近代国際法(欧州国際法)とは違う状況が東アジアにあったことを意味している
(当時は、ヨーロッパと東アジアで状況が違った)
→最大の違いは、「領土」に関する考え方だった
ヨーロッパと東アジアの状況の違いによって生じたのがアヘン戦争だった
※この戦争でイギリスは、清に自由貿易が拡大することを求めていた
→戦争の結果、清国が負けた
=そのため、1842年に南京条約という条約を結び、互市というところを拡大した
(南京条約は、清に対して不利な条約だった)
まとめ
19世紀・・・イギリスを中心に工業化 = 産業革命
※農業にも機械が導入 → 農業で人口が増え、人が工業に流れる
=農業と工業がそれぞれ発達する
※一方で、農業と工業の国内での商品流通が終わる
⇒だから、植民地獲得を目指した
ヨーロッパは東アジアの国際秩序を狙った
※当時の東アジアの秩序は、冊封朝貢関係だった
→これは、ヨーロッパ(近代国際法)とは違う秩序だった
=秩序の違いで発生したのがアヘン戦争だった
⇒その結果:清国が負ける、南京条約、互市の拡大