清朝の支配の拡大と周辺地域との関係について② -清朝と東アジア・東南アジアとの関係-
清朝の支配の拡大と周辺地域との関係について、東アジアと東南アジアとの関係を考えてみます
・清朝と東アジアとの関係について
・清朝の勢いがあった時には、直轄地や藩部の他に、東アジアやインドシナ半島の国々も
清朝に朝貢を行った
※この時に、清朝はこれらの国々を属国とみなしていた
・16世紀以降の朝鮮では、科挙制度の中で両班と言われる有力な家柄が
官僚の大部分を占めるようになった
→そのため、政治上の実権や学問上の指導権をめぐって争いを繰り返した
→朝鮮は、明の滅亡の後、清朝の侵略を受けてこれに従って朝貢関係に入った
※しかし、清朝に対する対抗意識は強く、朝鮮こそが正統な中国文化の継承者である
という意識があった
=そのため、両班層の間では儒教の考え方が、中国以上に厳格に守られた
・琉球は、17世紀の初めに薩摩の島津氏の攻撃を受けて、島津氏に従うようになった
※しかし、中国への朝貢は続いていた
=そのため、日本と中国の両方に従うという「両属」の状態になった
→その中で、中国と日本の両方の要素を含む琉球独特の文化が、首里城を中心に作られた
・日本では、1630年の鎖国の後に、江戸幕府が対外関係を厳しく統制した
→しかし、長崎における中国やオランダとの交易、対馬を通しての朝鮮との関係、
琉球を通じての中国との関係など、近くの国々との交流は江戸時代でも続いていった
・清朝と東南アジアとの関係について
・インドシナ半島では、18世紀の後半に大きな変動が起きた
→・16世紀以降、ベトナムが黎朝の名目的な支配のもとで政治勢力が南北に分裂していた
→その後、西山党が反乱を起こし、黎朝が滅ぼされるということが起きた
→さらにその後、フランスの支援を受けた阮福暎が西山朝を倒して、
1802年にベトナムを統一した
→・ミャンマーでは、トゥングー朝が中国人の反乱をきっかけに倒れるということが起きた
→すると、コンバウン朝という王朝が誕生して、ミャンマーを支配下に入れた
※この時にタイのアユタヤ朝も倒した
→・ミャンマー軍の撤退後のタイでは、チャクリ(ラーマ1世)が
今日まで続くラタナコーシン(チャクリ)朝を作った
=以上のような流れを受けて、18世紀の終わりから19世紀の初めに、
今日のインドシナ半島の様々な国家の領域に大体重なる形で、国家の枠組みが定まってきた
※インドシナ半島の王朝は、どれも清朝に朝貢してその支持を得ようとしていたい
→しかし、服属の関係は名目的なもので、清朝の実質的な支配は
これらの国々には及んでいなかった
ポイント
・清朝と東アジアの国々との関係についておさえる
・清朝と東南アジアの国々との関係についておさえる
このあたりが今回のポイントです