清朝の支配の拡大と周辺地域との関係について① -清朝の支配の拡大の流れ-
清朝の支配の拡大と周辺地域との関係について、拡大の流れを考えてみます
・清朝の支配の拡大について
・17世紀の終わりから、清朝の支配領域が大きく広がった
・康熙帝の時代には、当時黒竜江(アムール川)沿いに南へ進んでいたロシアと戦った
→そして、ネルチンスク条約という条約を結んで、国境を定めた
※ネルチンスク条約では、以下のような特徴があった
・アルグン川とスタノヴォイ山脈(外興安嶺)を両国の国境にした
・イエズス会士も通訳として会議に参加した
・ヨーロッパの国際法に合わせる形で条約が結ばれた
→また、康熙帝は自分で軍を連れてモンゴル方面に遠征し、その時に以下のようなことが起きた
・ジュンガルを破って外モンゴルを支配した
・モンゴル人に大きな影響力を持つチベット仏教の本拠である、チベットにも勢力を伸ばした
・乾隆帝の時代には、タリム盆地を支配していたジュンガルをほろぼして
東トルキスタン全域を占領した
※この時に占領した領土を、「新疆」(新しい土地)とした
=18世紀なかばの清朝の最大領域が、ほぼ今日の中国の領土の
原型になっていると言われている
・清朝は、自分たちの広い領土をすべて統治したわけではなかった
→直轄領とされたのは、中国内地、東北地方、台湾だった
※モンゴル、青海、チベット、新疆は藩部として理藩院というところに統括された
※モンゴルではモンゴル王侯が、チベットでは黄帽派チベット仏教の指導者である
ダライ=ラマなどが、新疆ではウイグル人有力者(ベク)が、現地の支配者として存続した
→この支配は、清朝の派遣する監督官と一緒にそれぞれの地方を支配するスタンスだった
※ダライ=ラマについて
・14世紀の終わりから15世紀の初めに、ツォンカパという人が開いた
黄帽派チベット仏教の教主のこと
・16世紀後半にモンゴルを支配したアルタン=ハンが黄帽派に帰依し、
ダライ=ラマの称号をおくった
→そのため、代々ダライ=ラマという名称で呼ばれるようになった
(ダライは大海、ラマは師の意味)
・ダライ=ラマを始めとするチベット仏教の高僧は、活仏と言われた
→その地位は、転生(生まれ変わり)によって受け継がれるものとされた
→清朝は、藩部の習慣や宗教についてはほとんど干渉しなかった
※特に、チベット仏教は手厚く保護して、モンゴル人やチベット人の支持を得ようとした
ポイント
・清朝の支配の拡大についておさえる
このあたりが今回のポイントです