近代の欧米諸国の条約について
近代の欧米諸国の条約について考えてみます
・欧米諸国の条約について
・清は、アヘン戦争ですぐれた兵器を持つイギリス海軍に連敗した
→その結果、1842年に南京条約を結んだ
※南京条約では、以下のようなことが考えられた
・香港島の割譲
・上海、寧波、福州、厦門、広州の5港を開く
・公行の廃止
・賠償金の支払い
※そして、1843年に以下のような不平等条約を結んだ
・領事裁判権(治外法権)を認めた
・協定関税(関税自主権)を認めた
・最恵国待遇を認めた
※さらに清は、1844年にアメリカ合衆国と望厦条約という条約を、
フランスと黄埔条約という条約を結んで、イギリスと同じ内容の権利を認めた
※イギリスは1845年に最初の租界(外国が行政権を持つ区域)を上海に設けた
・しかし、戦後の交易でも欧米諸国が期待したほどの利益はあがらなかった
→そこで、不満を抱いたイギリスは条約改定の機会を狙っていた
・1856年の広州で、アロー号事件というのが起こった
※アロー号事件・・イギリス船籍を主張する船の中国人乗組員が海賊容疑で
逮捕されるという事件のこと
→イギリスは、この事件を口実として、フランスに呼びかけて共同で出兵を行った
=その結果、アロー戦争(第2次アヘン戦争)を起こした
※アロー戦争では、イギリスとフランスの軍が広州を占領し、海路を北上して天津にせまった
→その結果、1858年に天津条約を結んだ
※しかし、次の年の1859年に、批准書交換の使節の入京を清の軍が武力で阻止する
ということが起きた
→この出来事をきっかけに、イギリスとフランスの軍は再び出兵して北京を占領した
=その結果、1860年に北京条約を結んだ
※この出兵の時に、イギリスとフランスの軍が円明園の離宮で略奪を破壊を行って、
円明園は廃墟になった
※北京条約では、以下のような内容が決められた
・清の外国公使の北京駐在を認めた
・天津など11港を開港した
・外国人の中国内地での旅行の自由を認めた
・キリスト教布教の自由などを認めた
・19世紀のなかばに、ロシアが東シベリア総督のムラヴィヨフという人のもとで
中国への圧力を強化した
→そして、1858年には清とロシアとの間でアイグン条約という条約を結んで、
黒竜江より北を領有した
→その後、1960年に清が北京条約を結んで、沿海州を獲得し、
ウラジヴォストーク港を開いた
※この港を太平洋進出の根拠地とした
→そして、イスラーム教徒の反乱をきっかけに、イリ地方に出兵するということが起きた
※この出来事をイリ事件という
=その後、1881年のイリ条約で清との国境を有利に取り決めた
・中央アジア方面でも、南下の勢いを示した
→19世紀のなかごろには、ウズベク人のブハラ、ヒヴァ、コーカンドの
3ハン国を支配下に置いた
ポイント
・清と欧米の国々との条約とその内容についておさえる
このあたりが今回のポイントです