清国内の動乱と近代化の動きについて
清国内の動乱と近代化の動きについて考えてみます
・清国内の動乱と近代化の動きについて
・アヘン戦争後に、重税によって貧乏になったり、清朝の統治に対する不安があったりした
→そこで、民衆はこのような問題に対抗するために、結社を作って助けあい、
生活を守ろうとする動きが高まった
・19世紀の半ばに、結社は中国各地で反乱を起こした
※その中で最も大きかったのが、洪秀全という人を指導者として起きた
太平天国の乱という反乱だった
※洪秀全と太平天国の乱について
・洪秀全は、広東でキリスト教の伝道に接した
→その後、洪秀全は自らをキリストの弟と称して拝上帝会という宗教結社を作った
※拝上帝会は、儒教を攻撃し、民間信仰の神々を偶像として破壊する
という活動を行い、弾圧を受けた
・洪秀全などが1851年に広西というところで挙兵して太平天国を作った
→この運動は、貧困を逃れて救済を求める民衆を巻き込んで急速に広がっていった
・太平天国軍は、湖南から北上して長江流域にいたり、1853年に南京を占領して、
南京を首都にした
※南京は、天京と名付けた
・太平天国は、「滅満興漢」をかかげて清朝の打倒を目指し、以下のような政策を出した
→・アヘンの吸飲や纏足などの悪い風習の廃止
・土地の均分(天朝田畝制度)を目指した
・支配下の男女を戦闘や労働に使った
・太平軍は、華北や長江の上流に軍をすすめた
※しかし、天京の政府は内部争いで混乱におちいってしまった
→この混乱をきっかけに、漢人の官僚が郷里で組織した義勇軍(郷勇)が、
太平軍を破った
※代表的な義勇軍に、曽国藩の湘軍、李鴻章の淮軍などがいる
・最初、様々な外国は太平天国に同情的だった
→その後、外国は北京条約で清朝に要求をのませるということを行った
※すると、外国は清朝の援護に変わった
→そのため、ウォードやゴードンのひきいる常勝軍が清軍に協力した
=その結果、1864年に天京は陥落し、太平天国が滅んだ
※しかし、太平天国の乱は、清朝中央や軍隊の無力ぶりを明るみに出し、
漢人官僚が勢力をのばすきっかけになった
・太平天国の乱の後に、国内の秩序は一時的に安定した
=この安定を、同治の中興という
・また、太平軍の鎮圧に活躍した曽国藩、李鴻章、左宗棠などは富国強兵を目指して
西洋の学問を導入した
=この出来事を洋務運動という
※洋務運動について
・洋務運動で行ったこと
→・兵器工場、紡績工場、汽船会社の設立
・鉱山開発や電信事業 など
・洋務運動は、「中体西用」の立場を取っていた
※洋務運動は西洋の考え方や社会制度を導入しようとするものではなかった
※中体西用・・中国の伝統的な道徳倫理を根本にしながら
西洋技術を利用するという立場のこと
ポイント
・太平天国の乱とその後の様子についておさえる
このあたりが今回のポイントです