近代の東アジアの国際秩序について
近代の東アジアの国際秩序について考えてみます
・東アジアの国際秩序について
・西洋の国々の進出と、日本の勢力の伸びによって、清朝を中心とする
東アジアの国際秩序が崩れてきた
・朝貢体制のもとでは、外国を対等の存在でなく国内の延長のようにみなしていた
→そのため、特別に外交を扱う役所は設けられていなかった
※1861年にはじめて、外務省にあたる総理各国事務衙門(総理衙門)が設置された
・今まで清朝の支配が間接的、または名目的にしか及んでいなかった地域に
他の国が手を伸ばすということが起きた
=その結果、19世紀の後半にこれらの地域が次々と清朝の影響から離れていった
・1879年の日本の琉球領有に続いて、南方では1884年の清仏戦争によって、
ベトナムがフランスの支配下になった
・朝鮮では、党争などによる政治的な動揺が続いた
※19世紀には、洪景来の乱をはじめとする反乱が何度か起こっていた
→このような状況のなかで、1860年代に入ると、欧米の国々は鎖国を続ける朝鮮に対して
開国をせまるようになった
※しかし、高宗の摂政だった大院君という人は開国を拒否し、攘夷を目指した
・日本は、1875年に江華島事件という事件を起こした
→日本は、これをきっかけに朝鮮にせまって、1876年に日朝修好条規という
不平等な条約を結んだ
※この条約の時に、領事裁判権を認める、釜山など3港を開港させる、などを認めさせた
・当時、朝鮮の内部では以下のような立場があり、対立していた
→・攘夷派
・改革派
・改革派の中で、日本に接近して急進的な改革を目指す金玉均など
・清との関係を維持して、ゆっくりと改革を行おうとする外戚の閔氏一族など
=この対立の結果、壬午軍乱や甲申事変などの内乱が何度か起きて、
日清間の対立も深まった
※壬午軍乱とは
・漢城(現在のソウル)で起こった軍隊の反乱のこと
・大院君を擁護して閔氏一派の要人を殺害し、日本公使館を襲撃したが、
清軍に鎮圧されてしまった
※甲申事変とは
・急進的な改革派が漢城で日本の武力を借りて閔氏政権を倒した政変のこと
・清軍の攻撃によって3日目に敗れた
→内乱による日清間の対立が深まったために、日本と清の両国は
1885年に天津条約を結んだ
※天津条約によって、両方の軍の撤兵や将来出兵する時の事前通告などを約束した
→しかし、1894年に全琫準という人などが甲午農民戦争(東学党の乱)
という争いを起こした
=そのため、日本と清の両方の軍が出兵して、日清戦争がはじまった
※東学とは
・1860年ころに崔済愚という人が作った新しい宗教のこと
・キリスト教の西学に対抗して、朝鮮にあった民間信仰に
儒教、仏教、道教の3教などを融合したもので、
他の宗教を排除する傾向を持っていた
※日清戦争について
・日清戦争は、日本が勝利した
・負けた清は、1895年の下関条約で以下のようなことを決めた
→・朝鮮の独立
・日本に対する遼東半島、台湾、澎湖諸島の割譲
・賠償金の支払い
・通商上の特権の付与
・開港した港での企業の設立 など
・この戦争の結果、日本は大陸侵略の足場を朝鮮に築くことになった
※この動きは、極東で南下を目指すロシアとの対立を深めていくことになった
ポイント
・明治維新とその動きについておさえる
・東アジアの国際的な動きの変化についておさえる
このあたりが今回のポイントです