東南アジアの植民地化の動きについて② -ミャンマー・フィリピン・ベトナム・清・タイ-
東南アジアの植民地化の動きについて、ミャンマー、フィリピン、ベトナム、清、タイの
それぞれについて考えてみます
・ミャンマーでは、イギリスはアッサムに進出したコンバウン朝を3次にわたる
ビルマ戦争をへてインドに併合した
→そして、ミャンマー南部のデルタ地帯の水田稲作開発をすすめて
世界市場に組み込んでいった
・フィリピンには、スペインが進出した
・スペインは、メキシコ銀をマニラに運んだ
→そして、マニラに集まってきた中国の商船や中国人在住者を仲介した
→そして、中国産の絹織物や陶磁器などを得てアメリカ大陸へ運ぶ太平洋ルートを確立した
・一方で、支配地では政教一致体制を取り、住民をカトリックに強制的に改宗させた
→この時に、新しく統治組織を作ってフィリピン人をトップにした
※しかし、スペイン人である教区司祭が、信仰から行政まで絶大な権限をふるった
・スペインは、今までは欧米の勢力に対して鎖国政策を取ってきた
→しかし、自由貿易を求める圧力を受けたために、1834年にマニラを正式に開港した
=その結果、砂糖、マニラ麻、タバコなどの商品作物の生産が一気に進み、
世界市場に組み込まれていった
※この時に、商人や高利貸しによる土地の集積が始まった
→そして、プランテーション開発が進んで大土地所有制が成立した
・ベトナムには、フランスが介入した
・阮福映という人は、フランス人宣教師のピニョーが本国から連れてきたフランス義勇兵と
タイ軍の援助で1802年に全土を統一し、阮朝を作った
・1804年に、清朝からベトナム(越南)国王に封ぜられた
=その結果、清の制度を導入し、行政制度を整備した
・19世紀の半ばになると、フランスはカトリック教徒の迫害を理由にして
強引に軍事介入をし始めた
→その後、1862年にメコン川流域を奪って、領土拡大の動きを見せた
→この動きに対して、劉永福という人が組織した黒旗軍という軍は、
ベトナム北部に根拠を置いて抵抗した
※この動きを口実にフランスは北部に進出した
=結果的に、1883年のユエ条約によって北部と中部を支配下に置いた
・一方で、清朝はベトナムへの宗主権を主張して派兵したことで、清仏戦争が起きた
→この戦争で清は敗れた
=その結果、1885年の天津条約でベトナムへのフランスの保護権を
承認することになった
→ベトナムの植民地化に成功したフランスは、1863年以来
保護国としていたカンボジアとベトナムを合わせた
=その結果、1887年にフランス領インドシナ連邦を成立させた
※1899年には、ラオスも編入した
・唯一植民地化の圧力を回避したのはタイだった
→タイでは、伝統的に閉鎖的な政策が西ヨーロッパの国々に対してとられていた
→19世紀になると、門戸開放の圧力が強まり、19世紀の後半になって
政策の転換が行なわれた
→王室による貿易独占が解除され、自由貿易の原則が確認された
※すると、次々と先進諸国と外交関係が結ばれた
=その結果、お米の商品化が進み、デルタ地帯の開発が進んだ
・チュラコロン(ラーマ5世)という人は、イギリスとフランスとの勢力均衡策を取った
→この政策の裏で、外国への留学や外国人専門家の導入化を進めた
=その結果、近代化に成功し、植民地化への危機を回避した
ポイント
・植民地化を中心に、東南アジアの動きについておさえる
このあたりが今回のポイントです