明治時代の朝鮮の問題について
朝鮮の問題について考えてみます
・朝鮮の問題について
・1876年に、日本は日朝修好条規という条約によって朝鮮を開国させた
→この時に、朝鮮の国内で日本に好意的な人達が出てきた
・しかし、1882年に朝鮮で壬午軍乱(壬午事変)という出来事が起きた
※壬午軍乱について
・日本に好意的で、日本に近づこうとした朝鮮の国王の高宗という人の
外戚にあたる閔氏という氏族の一族がいた
・一方で、閔氏の一族の考え方に反対する大院君という人がいた
・すると、大院君を支持する軍隊が朝鮮の首都の漢城で反乱を起こした
・さらに、大院君の軍隊に対応する形で人々が日本公使館を取り囲んでしまった
=この出来事を壬午軍乱という
※壬午軍乱は失敗に終わった
→しかし、その後閔氏の一族の政権は日本から離れて
清に近づこうとするようになってしまった
※壬午軍乱の後、自由党の板垣退助などは、朝鮮の親日改革派を援助して、
朝鮮の内部の政治を改革させようとした
・一方で、金玉均という人などを中心とした親日改革派(独立党)は、
日本と手を組んで朝鮮を近代化させようとした
→そこで、1884年の清仏戦争という戦争で清が負けたことが改革のきっかけだと考えて、
親日改革派が日本公使館の援助を受けつつクーデターを起こした
→しかし、清の軍が援助に来てしまったおかげで、親日改革派のクーデターは失敗した
=この出来事を甲申事変という
※甲申事変によって、日本と清との関係が悪くなってしまった
・日本は、清との関係を回復するために、1885年に政府が、
伊藤博文を清の天津という場所に送った
→その時に、伊藤博文は清の全権の李鴻章という人と天津条約という条約を結んだ
=この条約によって、日本と清は朝鮮から軍隊を連れ戻して、
もし朝鮮に軍隊を派遣する場合は、事前に相手国(日本は清に、清は日本に)に
通告することが義務となった
・2回の事変によって、以下のようなことが起きた
→・日本の朝鮮に対する影響力が弱くなってしまった
・清の朝鮮への進出が強化された
・清と朝鮮に対する日本の世論が急速に悪くなってしまった
・以上のような状況で、福沢諭吉が1885年に「脱亜論」という考え方を発表した
※脱亜論で、以下のようなことを発表した
・アジアと連帯を持つことを否定して、清や朝鮮に対しては武力で対応すべき
・日本はアジアを脱出して、欧米の強い国々の一員になるべき
→脱亜論によって、軍事的な考え方が出てきた
ポイント
・朝鮮の問題について押さえる
このあたりが今回のポイントです