日本の海外展開と日露戦争についてまとめてみた
日露戦争前後の動き
日清戦争後に清の力は衰え、欧米の国々が清に力を伸ばしてきた
→欧米の国々の清への進出に対抗するため、清の国内で政治の実現など改革を目指す動きが起きた
※ただし、保守派の反撃で改革は失敗した
→上記の流れの後、1900年に中国各地で義和団(反キリスト教の伝統的な宗教の流れをうけた組織)を中心とする外国人排斥運動が激しくなった
※この時に、鉄道やキリスト教の破壊、宣教師や外交官が殺される、など起きた
→そのため、欧米と日本が共同で軍隊を送って、義和団の動きをしずめた
→1901年には、清は賠償金の支払いと外国軍隊の駐留を認めた
=これら一連の流れによる事件を、義和団事件という
日清戦争後に、ロシアは三国干渉によって日本が清に返還したリヤオトン半島の一部を借り、強大な軍事基地を作った
※ロシアは同時に、義和団事件の時に満州(中国の東北部)を占領した
当時の日本は、韓国(元朝鮮)を支配しようとしていたため、ロシアの満州占領は恐れていた
→そこで日本は、ロシアの動きを恐れていたイギリスと手を組むことを考えた
=結果的に、1902年に日英同盟が成立した
当時のロシアは、満州から撤兵せず、韓国にも勢力をのばそうとした
※そこで日本は、ロシアに以下の2つの交渉をした
・ロシアの満州での権益の拡大を認めさせる
・日本の韓国への支配権を認めさせる
→ロシアの動きを見て、日本国内ではロシアへの反感が高まり、大きく3つの考え方が出てきた
・多くの新聞:開戦論(すぐにロシアと戦うべき)
・政府系の新聞と財界:慎重論
・キリスト教徒(内村鑑三)や社会主義者(幸徳秋水):非戦論
→結果的に日本は、開戦に踏み切った(=日露戦争)
※戦争は韓国と満州を戦場として行われた
※戦争は基本的に日本に有利だったが、日本もロシアも戦争を続けるゆとりがなくなった
→そこで日本は、アメリカに仲介を求め、1905年9月にアメリカのポーツマスで、日本とロシアとの間でポーツマス条約(日露講和条約)を結んだ
日露戦争によって、以下の影響が見られた
・日本は大きな犠牲をはらったのに、賠償金が無かったため、国内で不満の声が上がった
・講和反対と戦争継続をさけぶ群集が、大臣の家、講和を支持する政府系新聞社などを襲撃する事件などを起こした
・日露戦争の勝利で、日本の東アジアでの影響力が大きくなった
・欧米が日本の力に対して警戒するようになった