辛亥革命について
辛亥革命について考えてみます
・辛亥革命について
・義和団事件後の清朝は、以下のような動きを見せることで、
近代国家の建設に向けて改革を行った
→・1905年に科挙を廃止した
・1908年に立憲制へ向けて憲法大綱を発表し、国会開設を公約した
=この改革のことを、光緒新政という
→しかし、清朝の新政は、改革のために増税をしたり、中央集権的な性格が強かった
=そのため、地方の有力者や民衆の反発を招くことになった
・一方で、海外では、華僑や留学生を中心に、漢族が清朝を倒すことを目指す
革命運動が盛んになっていった
・興中会を指導した孫文という人は、バラバラであった様々な革命の団体の結集を行い、
1905年に日本の東京で中国同盟会を作った
※興中会・・孫文が、1894年にハワイで華僑を中心に組織した政治的秘密結社のこと
・中国同盟会は、三民主義をかかげて、革命宣伝や武装蜂起を行った
※三民主義とは
→満州王朝の打倒、共和国の建設、貧富の差の抑制を内容とする
「民族、民権、民生」という主義のこと
・1911年に中国で、満州皇族を中心として内閣が成立した
→内閣は、幹線鉄道を国有化し、それを担保に外国からの借款を得ようとした
※しかし、外国から利権を回収して民営の鉄道建設を進めようとしていた
民族資本家や地方の有力者は幹線鉄道の国有化に猛反対した
=結果的に、四川で暴動が起きた
→その後、四川での暴動をきっかけに、1911年10月に武昌(湖北省)の軍隊の
中にいた革命派が蜂起した
=その結果、辛亥革命が始まった
→辛亥革命による蜂起は、すぐにそれぞれの省に広まった
※そのため、1か月のうちに大半の省が独立した
→革命軍は、帰国した孫文を臨時大統領に選出した
=そこで孫文は、1912年1月に、南京で中華民国の建国を宣言した
※結果的に、アジアで初めての共和国が誕生した
→清側は、北洋軍を握る実力者であった袁世凱という人を起用して、
革命側との交渉に当たらせた
※北洋軍・・李鴻章が、淮軍を基盤として洋務運動の時期に作り上げた近代的軍隊のこと
→しかし、袁世凱は清朝を見捨てたため、清帝の退位と共和政の維持を条件に、
孫文から臨時大統領の地位を譲り受けて、北京で就任した
※その後、1912年2月の宣統帝(溥儀)という人が退位した
=その結果、二千年以上にわたる中国の皇帝政治が終了した
※ただし、皇帝政治の終了後も、共和政が安定しなかった
→そのため、議会の力をおさえようとする袁世凱と、袁世凱に抵抗する孫文などの
国民党と激しく対立した
=この時の、孫文たちの武装蜂起を第二革命という
※国民党について
・中国同盟会を中心として作られた政党
・国民党は1913年に解散させられた
・その後、孫文などが秘密結社の中華革命党を結成した
・そして、1919年に中華革命党を改組して、大衆政党の中国国民党にした
→第二革命の時に、袁世凱は孫文などを鎮圧して正式に大統領の座についた
※この時に袁世凱は独裁を進め、自ら帝位につこうとした
→しかし、国民党系の地方の軍人が第三革命を起こしたり、
外国が支持をしなかったりしたため、帝政の復活は失敗した
※そして、1916年に袁世凱が病死した
=袁世凱が亡くなってからは、列強の支援を受けた軍閥が各地に分立して
互いに抗争するという不安定な軍閥政権が十数年間続いた
※軍閥とは
→中央の統制に従わず、自ら財源を確保して個人的に軍隊をやしない、
政治を左右するようになった軍人を軍閥という
・中華民国は、清が領有していた漢、満、モンゴル、ウイグル、チベットなどの
様々な民族が住む地域を領土にした
※しかし、辛亥革命をきっかけに、周辺の地域で独立に向かう動きが出てきた
=結果的に以下のような動きが出てきた
・1911年に外モンゴルが独立を宣言した
→外モンゴルは、1924年にソヴィエト連邦の影響によって
モンゴル人民共和国を成立させた
・1913年にチベットで、ダライ=ラマ13世という人が独立を
主張する布告を出した
=しかし、外モンゴル以外の地域は中華民国の中にとどまって、独立しなかった
ポイント
・辛亥革命についておさえる
このあたりが今回のポイントです