列強の二極化とバルカン危機について
列強の二極化とバルカン危機について考えてみます
・列強の二極化とバルカン危機について
・1890年に、ドイツは外国に対する行動の自由を広げるために、
ロシアとの再保障条約の更新を見送った
→ロシアはドイツの更新の見送りに反発し、ロシアが工業化の資本を得ることを考えた
=その結果、ロシアはフランスに接近して、露仏同盟という同盟を結んだ
※これによって、フランスが外交的な孤立を脱出して、列強関係が流動的になった
・ドイツはその後、バグダート鉄道の建設を推進して、ベルリン、
ビザンティウム(イスタンブル)、バグダードを結んだ
=この結びつきを、3B政策という
※ドイツは3B政策を結ぶことで、イギリスの3C政策に対抗した
→さらにドイツは、1890年代の終わりから、イギリスとの間で海軍の拡張を競う
建艦競争を引き起こした
・イギリスは長い間、どの国とも同盟を結ばない「光栄ある孤立」の立場を取っていた
→しかし、イギリスは20世紀に入って、以下のような形で海外と交流した
・ロシアが東アジアに進出することに対抗して、1902年に日本と日英同盟を結んだ
・ドイツの動きに備えて、1904年にフランスと英仏協商を結んだ
・一方でロシアは、東アジアへの進出からバルカンへの進出策に転じると、
ロシアがドイツ、オーストリアとぶつかるようになった
→そこでロシアは、イギリスと和解して、1907年に英露協商を成立させた
※英露協商では、以下のようなことが決められた
・イランにおけるロシアとドイツの勢力の範囲を定めた
・アフガニスタンをイギリスの勢力範囲とした
・チベットでの中国の主権を認めた
・さらに、イギリス、フランス、ロシアはドイツとオーストリアを共通の敵とみなした
→そこで、イギリス、フランス、ロシアは協力してそれぞれの植民地や勢力圏を守ろうとした
=この三国の関係を、三国協商という
・その裏でイタリアは、三国同盟の一員だったものの、「未回収のイタリア」をめぐって
オーストリアと対立するようになった
→そのため、イタリアはフランスに近づくようになった
=その結果、三国同盟の内容が実質的にドイツ・オーストリア同盟に近くなった
※この時にドイツは、信頼できる唯一の同盟国であるオーストリアの安定を重視した
=結果的に列強は、イギリスとドイツをそれぞれの中心とする二つの陣営に分かれた
※そして、1910年以降に軍備の拡大を競い合った
・オーストリアは、国内のスラヴ系民族にパン=スラヴ主義の影響が及ぶのを恐れた
→そこでオーストリアは、セルビアなどのスラヴ系の国々に対抗して、
バルカン半島での勢力の拡大を狙った
※また、1908年に、オスマン帝国で青年トルコ革命という革命が起きた
=その結果、オーストリアは管理下にあったボスニア・ヘルツェゴビナを併合した
・一方でロシアは、1912年に、セルビアなどのバルカン4国をバルカン同盟に結束させた
→バルカン同盟は、イタリア=トルコ戦争の時にオスマン帝国に宣戦して、
オスマン帝国に勝った
=この戦いを、第1次バルカン戦争という
・第1次バルカン戦争の直後に、戦争で獲得した領土の分配をめぐって、
バルカン同盟国の間で戦争になった
=この戦争を、第2次バルカン戦争という
※列強の二極化は、バルカン半島の民族主義的対立を激しくさせ、
バルカン半島での勢力の変動が列強の対立をさらに悪化させた
=そのため、バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれた
ポイント
・列強の二極化の流れについておさえる
・バルカン同盟とその戦争についておさえる
このあたりが今回のポイントです