列強の二極化とバルカン危機について

閲覧数:3,320
投稿者:       投稿日時:2013/10/17 15:06      
(まだ評価されていません。)
コメント数: 0       お気に入り登録数:6

LINEで送る
Pocket

列強の二極化とバルカン危機について考えてみます

 

 

・列強の二極化とバルカン危機について

 

 

 ・1890年に、ドイツは外国に対する行動の自由を広げるために、

  ロシアとの再保障条約の更新を見送った

  →ロシアはドイツの更新の見送りに反発し、ロシアが工業化の資本を得ることを考えた

   =その結果、ロシアはフランスに接近して、露仏同盟という同盟を結んだ

    ※これによって、フランスが外交的な孤立を脱出して、列強関係が流動的になった

 

 

 ・ドイツはその後、バグダート鉄道の建設を推進して、ベルリン、

  ビザンティウム(イスタンブル)、バグダードを結んだ

  =この結びつきを、3B政策という

   ※ドイツは3B政策を結ぶことで、イギリスの3C政策に対抗した

 

  →さらにドイツは、1890年代の終わりから、イギリスとの間で海軍の拡張を競う

   建艦競争を引き起こした

 

 

 

 

 ・イギリスは長い間、どの国とも同盟を結ばない「光栄ある孤立」の立場を取っていた

  →しかし、イギリスは20世紀に入って、以下のような形で海外と交流した

   ・ロシアが東アジアに進出することに対抗して、1902年に日本と日英同盟を結んだ

   ・ドイツの動きに備えて、1904年にフランスと英仏協商を結んだ

 

 

 ・一方でロシアは、東アジアへの進出からバルカンへの進出策に転じると、

  ロシアがドイツ、オーストリアとぶつかるようになった

  →そこでロシアは、イギリスと和解して、1907年に英露協商を成立させた

   ※英露協商では、以下のようなことが決められた

    ・イランにおけるロシアとドイツの勢力の範囲を定めた

    ・アフガニスタンをイギリスの勢力範囲とした

    ・チベットでの中国の主権を認めた

 

 

 ・さらに、イギリス、フランス、ロシアはドイツとオーストリアを共通の敵とみなした

  →そこで、イギリス、フランス、ロシアは協力してそれぞれの植民地や勢力圏を守ろうとした

   =この三国の関係を、三国協商という

 

 

 ・その裏でイタリアは、三国同盟の一員だったものの、「未回収のイタリア」をめぐって

  オーストリアと対立するようになった

  →そのため、イタリアはフランスに近づくようになった

   =その結果、三国同盟の内容が実質的にドイツ・オーストリア同盟に近くなった

    ※この時にドイツは、信頼できる唯一の同盟国であるオーストリアの安定を重視した

 

 

  =結果的に列強は、イギリスとドイツをそれぞれの中心とする二つの陣営に分かれた

   ※そして、1910年以降に軍備の拡大を競い合った

 

 

 

 ・オーストリアは、国内のスラヴ系民族にパン=スラヴ主義の影響が及ぶのを恐れた

  →そこでオーストリアは、セルビアなどのスラヴ系の国々に対抗して、

   バルカン半島での勢力の拡大を狙った

   ※また、1908年に、オスマン帝国で青年トルコ革命という革命が起きた

    =その結果、オーストリアは管理下にあったボスニア・ヘルツェゴビナを併合した

 

 

 

 ・一方でロシアは、1912年に、セルビアなどのバルカン4国をバルカン同盟に結束させた

  →バルカン同盟は、イタリア=トルコ戦争の時にオスマン帝国に宣戦して、

   オスマン帝国に勝った

   =この戦いを、第1次バルカン戦争という

 

 ・第1次バルカン戦争の直後に、戦争で獲得した領土の分配をめぐって、

  バルカン同盟国の間で戦争になった

  =この戦争を、第2次バルカン戦争という

 

 

 

  ※列強の二極化は、バルカン半島の民族主義的対立を激しくさせ、

   バルカン半島での勢力の変動が列強の対立をさらに悪化させた

   =そのため、バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれた

 

 

ポイント

・列強の二極化の流れについておさえる

・バルカン同盟とその戦争についておさえる

 

このあたりが今回のポイントです

 

閲覧数:3,320
LINEで送る
Pocket


(この記事はまだ評価されていません)
Loading ... Loading ...
投稿者:
投稿日時2013/10/17 15:06

コメント数: 0
お気に入り登録数:6



コメントを残す