初期議会とその動きについて
初期議会とその動きについて考えてみます
・初期議会の時の動きについて
・1890年に、日本で最初の衆議院議員総選挙が行われることが決まった
※選挙については、大日本帝国憲法と同じ時に、衆議院議員選挙法という法律が作られた
・この法律によって、選挙で投票できる人が、満25歳以上の男性で
直接国税15円以上の人だけだった
→そのため、投票権を持っている人は約1%しかいなかった
・選挙に立候補する人は、満30歳以上の男性だった
・衆議院議員総選挙の前に、民権派の人達が再び集まる、ということが起きた
→この動きに対抗して政府側は、当時の首相だった黒田清隆という人によって、
大日本帝国憲法を作ってすぐに、超然主義を発表していた
※超然主義・・自分の考え方は、周りに左右されてはいけないという考え方のこと
→総選挙の結果は、民権派が勝利という内容だった
・帝国議会の状況について
・民権派が勝利した状況で行われた第一回帝国議会(第一議会)では、
立憲自由党や立憲改進党などの民党が衆議院の過半数を占めていた
※当時は、総議席数300のうち、立憲自由党が130、立憲改進党が41だった
※民党・・立憲自由党や立憲改進党などの反政府野党のこと
吏党・・民党とは反対に、政府を支持する党のこと
・第一議会が開かれた時に、当時の首相だった山県有朋を中心とした
第一次山県有朋内閣は超然主義の立場を取った
→そのため、政費節減・民力休養を主張する民党に攻撃されたものの、
自由党の一部を切り崩して予算を成立させた
※政費節減・民力休養とは、どのような主張なのか
→行政の費用を節約して、地租を減らすことと、地価を修正することを
行えという主張だった
※山県有朋は、予算案の説明の時に、国境というくくりでの「主権線」だけでなく、
朝鮮までもを含む「利益線」を守るために陸海軍を増強する必要があることを力説した
・第二議会では、当時の首相の松方正義を中心とした第一次松形正義内閣が民党と衝突した
→その結果、衆議院を解散させた
・1892年の第2回総選挙の時に、松方内閣は内務大臣の品川弥二郎という人を
中心にして選挙干渉を行った
→選挙干渉で政府支持者を当選させようとしたが、民党が優勢だった状況を
くつがえすことはできなかった
=そのため、松方内閣は第三議会が終了した時に退陣した
※選挙干渉・・政府が選挙のルールを無視して選挙に介入し、
反対の党を抑えつけること
・第1次松方内閣の後に、「元勲総出」と言われた第2次伊藤博文内閣が出てきた
※なぜ、元勲総出と言われたのか
→明治維新の時に活躍した薩摩や長州出身の政治家を元勲と言い、
元勲が内閣に多く入ったから
・第2次伊藤博文内閣は、海軍の軍備を拡張させることに成功している
※なぜ、海軍軍備の拡張が成功したのか
・伊藤博文内閣が民党のトップだった自由党に近づいたから
・1893年に、天皇が詔書(天皇が意思表示した文書のこと)を出したから
→詔書の中に、「天皇が自分で宮廷費を削って、
文部官の給料の10分の1を出させて、軍艦の建造費に充てるから、
議会も政府に協力してほしい」という内容が書かれていた
・自由党以外の民党は、政府と自由党が近づくことに反対していた
→そこで、改進党などを始めとした自由党以外の民党が、
以前に吏党だった国民協会と手を組んで、条約改正の問題について政府を批判した
=このような状況だったので、政府と衆議院は結果的に第六議会まで対立していた
※自由党以外の民党と国民協会が手を組んだ連合を、対外硬派連合と呼び、
その中で国民協会以外の会派を中心に進歩党という党が1896年に作られている
ポイント
・初期議会の動きについて押さえる
このあたりが今回のポイントです