明治時代の条約改正について
条約改正について考えてみます
・条約改正について
・江戸幕府が欧米の国々と結んだ不平等条約の改正
(特に、領事裁判権(治外法権)の撤廃と関税自主権の回復)は、
国家を独立させて、富国強兵を目指す日本にとって大きな課題だとして重要視された
・岩倉具視と寺島宗則の交渉の失敗の後に、井上馨外務卿(後の外務大臣)は
交渉に向かうことになった
・井上馨は、以下のようなことを行った
→・1882年に、東京に外国の代表を集めて、予備会議という会議を開いた
・その後、1886年に正式な会議に移った
=その結果1887年に、内地雑居(日本国内を外国人に開放すること)を
認める代わりに、領事裁判権を原則撤廃にするという改正案が、
欧米の国々によって一応了承された
※しかし、領事裁判権の撤廃については、欧米と同じような法典を使うこと、
外国人が被告(訴えられる側)の裁判の時は、半分以上は外国人判事を
採用しなければいけないこと、という条件がついた
・政府の内部では、条約改正交渉に反対する意見が増えた
→そのため、井上馨は条約改正の交渉を中止して、外務卿を辞任した
※なぜ、条約改正に反対する意見が増えてきたのか
・領事裁判権の撤廃の条件が、日本の国家の主権を侵害している
という批判が出てきたから
・井上馨が交渉を成功させるために、極端な欧化主義を取ったから
→欧化主義の考え方によって、井上馨は東京日比谷に
鹿鳴館という外国人接待の施設を作った
=このような井上馨の外交を、鹿鳴館外交という
※ただし、ノルマントン号事件という事件で、
世論が不平等条約について反感を持った、ということもあった
・ノルマントン号事件とは・・
・1886年に、横浜から神戸に向かうイギリスの貨物船が暴風雨に当たって
沈没するという出来事が起きた
・その時に、イギリス人が日本の船乗りを見殺しにしたという出来事が起きた
・しかし、イギリス領事が行った審判で、イギリス人の船長は悪くない
という判断を出すという事件が起きた
=この事件を、ノルマントン号事件という
・井上馨の後は、大隈重信外務卿が後を受け継いだ
→大隈重信は、条約改正に好意的な国から個別に交渉していくことを決めた
→その結果、アメリカ、ドイツ、ロシアとの間で条約の改正を達成した
※しかし、後に条約改正以外の約束として、大審院に外国人判事を使う事を
認めていたことが発覚した
→そのため、政府の内部からも外部からも反対論が出てきた
※さらに、1889年対外硬派連合に入っていた玄洋社という団体の一人によって、
大隈重信が傷つけられるという事件が起きた
=この事件によって、改正の交渉はまた中断した
・その後、ロシアがシベリア鉄道という鉄道を作って東アジアに出てくる計画を立てた
→この計画を知ったイギリスは、ロシアを警戒したため、日本に対して好意的になり、
お互いに対等を原則とする条約の改正に応じることを考えた
→そこで、青木周蔵外務卿という人改正交渉を始めたが、
1891年の大津事件という事件で辞任してしまった
→さらに、その後を継いだ榎本武揚という人も本格的な交渉をすることはなかった
※大津事件とは
・日本に訪問している最中のロシア皇太子が、琵琶湖遊覧の帰りに、
滋賀県の大津市で警察の巡査だった津田三蔵という人によって
切りつけられてケガをした事件のこと
→この事件について、当時の政府だった松方内閣は、
ロシアとの関係が悪くなることを怖がって、皇太子を切りつけた犯人を
死刑にするように裁判所に圧力をかけた
→しかし、大審院(最高裁判所)の長だった児島惟謙という人は、圧力を気にしないで
法律を適用させて無期徒刑にすることで、児島惟謙は司法権の独立を守った
・上のように、交渉が上手くいかない状況で、第2次伊藤博文内閣の外務卿だった
陸奥宗光という人が出てきた
→陸奥宗光は、自由党に支持されたため、国内の改正反対を抑えて、1894年に交渉した
=その結果、日英通商航海条約という対等な条件での条約を調印することに成功した
※日英通商航海条約の内容
・領事裁判権の撤廃
・関税率の引き上げ
・お互いに対等な状況で最恵国待遇を認める
・その後、欧米の国々とも改正条約が調印されて、1899年に同時に適用された
・1911年に小村寿太郎外務卿が、関税自主権の回復を達成した
→このようにして、開国してから半世紀で、日本は初めて対等の地位を得ることが出来た
ポイント
・条約改正までの流れとその内容を押さえる
このあたりが今回のポイントです