開国の時の日本の動きについて
開国の時の日本の動きについて考えてみます
・開国の時の日本の動きについて
・1853年にペリーが来てから、老中の首座(トップ)だった阿部正弘という人が
今までの方針を変えた
=方針を変えたことで、朝廷への報告を行ったり、大名や幕府の家来などにも
意見を述べさせて、国全体で対策を立てて行こうとした
→しかし、この方針の変化は、朝廷の権力を高めて大名の発言力を高めるものだった
=結果的に阿部正弘の方針の転換が、幕府の政治も転換させることになった
・幕府は、方針の転換に加えて以下のような改革を行った
→・越前藩主の松平慶永、薩摩藩主の島津斉彬、宇和島藩主の伊達宗城などの
人材を起用した
・前水戸藩主だった徳川斉昭という人を幕府の政治に参加させた
・国の防御をより充実させるために、江戸湾に台場(砲台)を作り、
大船建造の禁を無くした
※大船建造の禁・・大きな船を造ることを禁止した法律のこと
=方針の転換を加えた以上のような改革を、安政の改革という
・開国をした後は、幕府も藩も軍事力を高めたり、海外の情報の収集を行ったり、
人材の育成を行ったりした
※具体的に、どのようなことを行ったのか
・幕府
→・長崎に海軍伝習所という学校を作った
・江戸に蕃書調所や講武所などの教育機関を作った
・藩(水戸、薩摩、肥前、長崎など)
→・反射炉を作った
・大砲を作った
・1856年に、下田に駐在する初代のアメリカ領事のトップということで
ハリスという人が来た
→ハリスは、日米修好通商条約を結ぶことを強く要求してきた
※この時のハリスとの交渉は、当時の老中首座だった堀田正睦という人が担当した
→堀田正睦は、条約を認める許可を天皇に求めた
※しかし、朝廷では攘夷(外国との交渉を認めない)の傾向が強かった
=そのため、当時の天皇だった孝明天皇の許可を得ることが出来なかった
・しかし、1858年に清がイギリスとフランスの連合軍とアロー戦争という戦争を行った
=その結果、清は負けてイギリスやフランスと天津条約という条約を
結んだという出来事が起きた
→そこでハリスは、イギリスとフランスの強さと危険性を日本に説明し、
日米修好通商条約の調印を求めた
=その結果、当時の大老だった井伊直弼という人が、天皇の許可が無い状態で
1858年6月に日米修好通商条約を強引に結んだ
※日米修好通商条約の内容
・神奈川、長崎、兵庫、新潟の開港
※神奈川は交通が盛んだったため、実際は横浜に変更され、
横浜が開港した後に下田は閉鎖された
※兵庫も、実際は神戸を開港することになった
・江戸と大坂の市を開いた
・貿易を自由貿易にすること
・開港した場所に居留地を用意して、一般の外国人の国内旅行を禁止した
※居留地・・なにかしら関係のある外国人の居住や営業の自由を認めた地域のこと
・日本に住んでいる自分の国民への領事裁判権(治外法権)を認めた
※領事裁判権・・領事が駐在している国に自分の国籍の人がいた場合に、
その人に対して裁判を行う権利のこと
=ここでは、日本でアメリカ人が犯罪などを行った場合、
アメリカ人を日本の裁判ではなく
アメリカ領事が裁判を行う権利のこと
・関税自主権の欠如を認めた
※関税自主権の欠如・・関税について、一つの国に税率を決める権利がなく、
当事者同士が話し合って関税を決めること
=ここでは、日本に関税を決める権利が無く、
日本とアメリカが話し合って決めた
→日米修好通商条約は、以上のような日本にとって不利な不平等条約だった
※1860年に日本は、条約を認める文書の交換をするために
外国奉行の新見正興という人をトップにしてアメリカに派遣している
→この時、勝海舟などが幕府の軍艦だった咸臨丸を操縦して
太平洋の横断に成功している
・幕府は、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも日米修好通商条約と同じような
条約を結んだ
=これを、安政の五カ国条約という
ポイント
・開国の時の日本の動きについて押さえる
このあたりが今回のポイントです