幕府の滅亡と幕末の文化について
幕府の滅亡と幕末の文化について考えてみます
・幕府の滅亡について
・14代将軍徳川家茂が亡くなった後に、徳川慶喜という人が15代将軍になった
→徳川慶喜は、フランスの援助を受けつつ、幕府の立て直しを行った
※徳川慶喜は立て直しのために、フランスから陸軍士官を呼んで、
軍制改革などを行った
・一方、1866年に薩長同盟を結んだ薩摩藩と長州藩は、1867年に
武力で幕府を倒すことを決めた
→しかし、土佐藩はあくまでも公武合体の立場を取った
=そのため、藩士の後藤象二郎と坂本竜馬の2人が、倒幕派よりも先に行動して
倒幕派の計画を失敗させるために土佐藩の前の藩主だった山内豊信(容堂)を通じて
15代将軍徳川慶喜に、政権を朝廷に返すことを進めた
※なぜ後藤象二郎と坂本竜馬は政権を朝廷に返すことを進めたのか
→後藤象二郎と坂本竜馬は、将軍から政権を一度朝廷に返させることで、
朝廷に徳川慶喜を中心とした雄藩の連合政権を作ろうという考えを持っていたから
→徳川慶喜は、後藤象二郎と坂本竜馬の考え方を受け入れた
=そのため徳川慶喜は、10月14日に大政奉還の上表を朝廷に提出した
※大政奉還・・政権を天皇に返すこと
・大政奉還と同じ10月14日に、朝廷にいた岩倉具視という人と手を組んだ
薩摩藩と長州藩が討幕の密勅を手に入れていた
※討幕・・幕府を倒すための天皇の秘密の命令のこと
・大政奉還の上表によって先手を取られた倒幕派は、12月9日に薩摩藩の武力を使って
朝廷でクーデターを起こした
→このクーデターの時に王政復古の大号令を出して、天皇を中心とした新しい政府を作った
=これによって、江戸幕府が終了した
※王政復古の大号令・・大政奉還の後に倒幕派が出させた号令のこと
→この号令によって、政権が完璧に朝廷に戻った
・王政復古の大号令の後の新しい政府はどのようなスタイルになったのか
→・将軍と、朝廷の摂政・関白を廃止にした
・天皇をトップに置いて、新しく総裁、議定、参与という三職を置いた
・参与に薩摩藩を始めとした力のあった藩を代表する藩士を入れた
=このようにして、雄藩連合のスタイルをとった
※参与に誰が加わったのか
・薩摩藩から・・西郷隆盛、大久保利通
・土佐藩から・・後藤象二郎、福岡孝弟
・長州藩から・・木戸孝允、広沢真臣
・王政復古の大号令が出た12月9日の夜に、三職で小御所会議という会議を開いた
=この会議で、徳川慶喜を内大臣から降ろすこと、
徳川慶喜に領地の一部を朝廷へ返すこと(辞官納地)を命令する処分が決まった
→この命令に反発した徳川慶喜は、京都から大坂城に引き上げて、
新しい政府と軍事的に対決することを決めた
・幕末の文化について
・幕府は、欧米の国々との交流を行って、欧米の文化や学術を取り入れて
近代化を目指そうとした
・幕府は開国してすぐに、蕃書調所という教育機関を作った
→蕃書調所では、洋学を教えたり、外交の文書の翻訳などを行わせたりした
→さらに、海外に留学生を派遣して、欧米の国々の政治、経済、法律などを勉強させた
※開明政策を取った薩摩藩や長州藩なども海外に留学生を派遣した
※蕃書調所について
・蕃書調所は、洋書調所、開成所、開成学校、東京大学と発展していった
→発展と一緒に、自然科学だけでなく哲学や政治経済まで扱うようになった
・医学の分野で、種痘所(後の医学所)が作られた
※どのような人達が海外に留学したのか
・洋書調所の教官の西周と津田真道という人がオランダに留学した
・福沢諭吉が幕府の使節に従って、アメリカやヨーロッパに出向いた
・伊藤博文と井上馨という人が長州藩からイギリスに留学した
・森有礼という人が薩摩藩からイギリスに留学した
・開港地の横浜に、外国人宣教師や新聞記者が来日した
→この人達を通して欧米の文化が紹介された
※宣教師の中には、アメリカ人のヘボンのように診療所や英学塾を開いて、
西洋文化を伝えようとする人もいた
→以上のような文化の変化によって、攘夷の考え方が弱くなっていった
=逆に、欧米を参考にして近代化を行っていくべきだという考え方が強くなっていった
ポイント
・幕府の滅亡の流れについて押さえる
・幕末の文化を押さえる
このあたりが今回のポイントです