開港による日本への影響と政治の動向について

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投稿者:       投稿日時:2013/10/25 05:57      
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開港による日本への影響と政治の動向について考えてみます

 

 

・開港による日本への影響について

 

 

 ・開港によって、1859年に横浜、箱館、長崎の3つの港で貿易が始まった

  

  ※当時の輸出入品の取り引きは、居留地で外国の商人と

   日本の商人(売込商・引取商)との間で、銀貨を使って行われていた

 

  ※輸出入額は横浜が一番多く、イギリスとの取引が一番多かった

 

  ※日本は、以下のものを輸出入の品目として扱っていた

   ・輸出品・・生糸(輸出品の中でも生糸が圧倒的に多かった)、茶、蚕卵紙、海産物

         などの農水産物とそれぞれの加工品など

   ・輸入品・・繊維製品や軍需品

 

 

  →結果的に、貿易は大幅な輸出超過(輸入よりも輸出が圧倒的に多い状態)になった

   =そのため、日本国内の物価が上昇し、日本の産業に変化が起きた

 

 

 ※物価の上昇によってどのような変化が起きたのか

  →・輸出品の中心だった生糸の生産が増えた

   ・機械で作られた安い綿織物が大量に輸入されたため、

    農村で行われていた綿作や綿織物業にダメージを与えた

 

 

 

 ・幕府は、物価の上昇を押さえるという理由で、貿易の制限を行った

  →制限の代表的なものに、五品江戸廻送令という法律がある

   ※五品江戸廻送令・・雑穀、水油(菜種油)、蝋、呉服、生糸の5品は、

             必ず江戸の問屋を通して輸出しなければいけないという法律のこと

 

  →しかし、輸出向けの商品を扱っていた在郷商人や、

   商業での取引の自由を訴える多くの国々の反対によって

   五品江戸廻送令の効果はあまりなかった

 

 

 

 ・当時は、日本と外国で金と銀の交換比率が違った

  →そのため、大量の金貨が外国に出て行くということが起きてしまった

 

  ※どういうことか

   ・当時、日本は金と銀の交換利率が1:5だったのに対し、外国は1:15だった

    =外国では銀15に対して金1との交換だが、日本だと銀5で金1と交換してもらえる

    =ということは、日本で銀15を交換しようとすると、金3と交換することが出来る

    =さらに、金3を外国で銀に戻すと、外国は1:15の比率なので

     銀45と交換することが出来る

    =銀を日本に持って行って金と交換して、日本の金を外国で銀と交換すると、

     銀15が銀45になる

 

   ・そこで、外国の人たちは外国銀貨(洋銀)を大量に日本に持ち込んで、

    日本の金を安く得ていた

    →そのため、日本には多くの銀が入ったが、大量の金が外国に出て行くことになった

  

  →幕府は外国への金の流出を、金貨の品質を大きく下げて金貨を作りなおすことで

   金の流出を防ごうとした

   =この時の金貨を作りなおす政策を、万延貨幣改鋳という

 

   ※万延貨幣改鋳によって、貨幣の実質的な価値が下がったため、

    物価がさらに上昇してしまった

    =そのため、庶民の生活がさらに苦しくなった

 

 

 

 →以上のような様々な動きによって、庶民の貿易に対する反感が強くなり、

  攘夷運動を引き起こすきっかけになった

  

 

 

 ※ちなみに、開港をしてから、東禅寺事件、生麦事件、イギリス公使館焼打ち事件などの

  様々な事件も起きている

 

  ・1860年に、ハリスの通訳だったオランダ人のヒュースケンという人が、

   江戸で薩摩藩の浪士に殺されるという出来事が起きた

 

  ・1861年に、高輪東禅寺のイギリス仮公使館が水戸藩から抜けた藩士に

   襲われるという出来事が起きた

   =この出来事を、東禅寺事件という

 

  ・1862年に、神奈川宿に近い生麦という場所で、江戸から帰る途中だった

   島津久光の行列をイギリス人が横切ったため、その横切ったイギリス人を殺す

   という出来事が起きた

   =この出来事を生麦事件という

    ※生麦事件は、後に薩英戦争という戦争を招くきっかけになったと言われている

 

  ・1862年に、品川の御殿山に作っている途中だったイギリスの公使館が、

   高杉晋作、井上馨、伊藤博文などに襲われて、全焼するという出来事が起きた

   =この出来事を、イギリス公使館焼打ち事件という

 

  

 

 

 

・開港の時の政治の動向の変化について

 

 

 ・ハリスが通商条約の締結を日本に迫っていたころに、幕府では13代将軍徳川家定に

  子供がいなかったため、将軍継嗣問題という問題が出てきた

 

  ※将軍継嗣問題について

   

   ・越前藩主の松平慶永や薩摩藩主の島津斉彬などは、14代将軍に

    ふさわしい人を探していた

    →そこで、一橋家にいた慶喜(徳川斉昭の子供)を推した

     =一橋家を推すグループを一橋派という

  

   ・一方で、徳川家定と血筋が近く、まだ子どもの紀伊の藩主だった徳川慶福という人を、

    譜代大名達が推していた

    =徳川慶福を推すグループを南紀派という

 

    →そのため、一橋派と南紀派が対立することになった

 

   ・一橋派と南紀派が対立している状況の中、1858年に南紀派の指導者だった

    彦根藩の藩主の井伊直弼という人が大老に就任した

    →井伊直弼は、以下の2つのことを行った

     ・天皇の許可が無い状態で、日米修好通商条約を強引に結んだ

     ・一橋派を押し切って、徳川慶福を将軍の跡継ぎにした

      =この時に徳川慶福が将軍につき、14代将軍徳川家茂となった

 

 

 ・井伊直弼が、日米修好通商条約を天皇の許可が無い状態で結んだことによって、

  当時の天皇だった孝明天皇が怒り、一橋派の大名や、尊王攘夷の考えを

  持っている人達から批判された

 

  →この状況に対して、井伊直弼は強気な態度を取り、

   井伊直弼に反対する人達を抑えつけ、処分した

   =この出来事を安政の大獄という

    ※安政の大獄では、橋本左内や吉田松陰などの人達が死刑になった

 

  →水戸藩から抜けた人達の中で安政の大獄に腹を立てた人達が、1800年に

   江戸城の桜田門外という場所で井伊直弼を暗殺するという出来事が起きた

   =この出来事を桜田門外の変という

 

 

 

ポイント

・開港による日本への影響について押さえる

・開港の時の日本の政治の動向について押さえる

 

このあたりが今回のポイントです

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