公武合体運動と尊王攘夷運動について

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投稿者:       投稿日時:2013/10/25 06:04      
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公武合体運動と尊王攘夷運動について考えてみます

 

 

・公武合体運動について

 

 

 ・桜田門外の変の後に、老中の安藤信正という人が幕府を仕切る中心人物になった

  →安藤信正は、朝廷(公)と幕府(武)をまとめることを考えた

   =公と武をまとめることを公武合体と言い、安藤信正は公武合体の政策を取った

 

  

 ・安藤信正は公武合体政策として、孝明天皇の妹の和宮という人を

  14代将軍徳川家茂の妻にした

  ※このような政略結婚は、尊王攘夷論の考え方の人達から批判された 

   →そのため、安藤信正は1862年に、江戸城の坂下門外という場所で

    水戸藩を抜けた藩士たちに傷つけられて老中を降ろされるという出来事が起きた

    =この出来事を坂下門外の変という

 

 

 ・坂下門外の変が起きるような状況で、朝廷と幕府の両方につながりがあった

  外様の薩摩藩が動いた

  →薩摩藩は、独自の公武合体の考え方から、薩摩藩の藩主の島津忠義という人の

   父親の島津久光という人が、天皇の意思を伝えるために江戸に向い、

   幕府の政治の改革を求めた

   =その時に幕府は薩摩藩の考え方を聞き、薩摩藩の考え方を受け入れて、

    幕府の政治を新しくした

 

   ※具体的にどのように新しくしたのか

    ・松平慶永という人を、政事総裁職という役職に置いた

    ・徳川(一橋)慶喜を、将軍後継職という役職に置いた

    ・会津の藩主だった松平容保という人を、京都守護職という役職に置いた

    ・西洋の軍制のスタイルを採用した

    ・参勤交代制を緩めた など

 

 

 

 

 

・尊王攘夷運動について

 

 

 ・島津久光が江戸に向かっていた時の京都は、尊王攘夷論を藩の意見とする

  長州藩の動きが盛んだった

  

  ※尊王攘夷論について

 

   ・尊王攘夷論とは・・天皇を重視し尊敬して(尊王論)、

    鎖国政策を通そうとする(攘夷論)考え方のこと

    =尊王論と攘夷論を合わせて、尊王攘夷論という

   

   ・尊王攘夷論は幕末の水戸学という学派から出てきた考え方で、

    藤田東湖や会沢安などが中心だった

   

   ・尊王攘夷運動を主張する人達は尊攘派と呼ばれるようになった

 

   ・尊王攘夷論は、日米修好通商条約を結んだ後は反幕論(幕府に反対する考え方)に

    なったため、尊攘派を中心とした政治改革運動に変わっていった

 

 

 

 ・長州藩は、急進派(急いで目標を達成しようとする派閥)の公家と手を組んで

  朝廷を動かし、将軍を京都に連れてきて、攘夷を行う事を幕府に要求した

  →そのため、幕府は仕方なく1863年5月10日に攘夷を行うように

   様々な藩に命令した

   ※命令したその日に、実際に長州藩は下関の海峡を通った様々な外国船を

    砲弾で攻撃して、攘夷を行動に移したと言われている

 

 

 ・長州派を中心とした尊攘派に対して、薩摩と会津の2つの藩が

  8月18日に動きを見せた

  →薩摩藩と会津藩は、朝廷の中にいる公武合体派の公家と一緒に朝廷の権力を奪った

  →それと同時に、長州藩とその勢力、急進派の公家の三条実美という人などを

   京都から追い出すという出来事が起きた

   =この出来事を八月十八日の政変という

 

   ※八月十八日の政変の前後に、天誅組の変と生野の変という2つの出来事が起きている

 

    ・尊王攘夷を行おうとした公家の中山忠光と土佐藩の藩士の吉村虎太郎などが、

     大和五条というところにある代官所を襲うという出来事が起きた

     =この出来事を天誅組の変という

 

    ・元福岡の藩士だった平野国臣という人などが但馬の生野代官所を襲う

     という出来事が起きた

     =この出来事を生野の変という

 

 

 

 ・八月十八日の政変が起きた次の年の1864年に、

  長州藩は勢力を取り戻すために以下のような行動を取った

  →長州藩は、池田屋事件という出来事をきっかけに京都を攻めた

  →しかし、結果的に会津、薩摩、桑名などの藩の兵に負けて退くという出来事が起きた

   =この出来事を禁門の変、または蛤御門の変という

 

  ※池田屋事件とは・・

   ・京都守護職の指揮下にあった近藤勇を局長とする新撰組が、

    尊攘派を京都の池田屋という旅館で攻撃した事件のこと

 

 

 ・禁門の変を受けて、幕府はすぐに様々な藩の兵を使って、第一次長州征討を行った

 

 

 ・当時の状況で、攘夷派が貿易の邪魔になると考えていた様々な国は、

  攘夷派を攻撃する機会を狙っていた

  →そこで、イギリスを中心にフランス、アメリカ、オランダの4つの国が連合艦隊を作り、

   下関の砲台を攻撃して占領する、という出来事が起きた

   =この出来事を四国艦隊下関砲撃事件という

 

 

 →このような状況の中で、長州藩の上層の人達は藩の中にいる尊攘派を抑えつけて

  幕府に従う態度を取った

  =そのため、第一次長州征討の時の幕府の軍は長州藩と戦わないで帰ってきた

 

  ※なぜ、長州藩はこのような態度を取ったのか

   =薩摩藩の1863年の薩英戦争の様子を見て、

    攘夷が不可能なことが分かっていたから

   

  ※薩英戦争とは・・

   →生麦事件の復讐のために、イギリスの軍艦が鹿児島湾に攻めてきて、

    砲火をした出来事のこと

 

 

 

 ・様々な国は1865年に兵庫沖に艦隊を送って圧力をかけて、条約勅許を得た

  

  ※条約勅許について

   ・井伊直弼が日米修好通商条約を結び、安政の五カ国条約を結んだが、

    この条約に対して天皇はずっと認めていなかったため、

    天皇の許可(勅許)を出していなかった

   ・しかし、1865年に艦隊に圧力までかけられたため、

    仕方なく安政の五カ国条約に勅許を出した

    =これを条約勅許という

 

  →そのため、次の年の1866年には、幕府に改税約書への調印を行わせ、

   貿易の不平等が増えた

 

   ※改税約書について

    →改税約書によって以下のようなことが決まった

     ・日米修好通商条約の時に決めた関税率(20%)を、日本以外の国が

      有利になるように関税率を引き下げた(=関税率を一律5%に引き下げた)  

     ・自由貿易の邪魔になるような様々な制度を撤廃した

 

 

 

 ・この時期から、イギリスの公使だったパークスという人が、

  日本の幕府の力が無いことを見抜いていた

  →そこでパークスは、天皇を中心とする雄藩連合政権というスタイルが

   実現することを期待するようになった

   ※雄藩連合政権・・力や発言力のある藩が手を組んで担当する政権のこと

 

   ※薩摩藩は、薩英戦争の経験からイギリスと敵対するよりも

    イギリスに近づいた方が良いと考えた

    →そこで、イギリスに近づく開明政策に方針を変えた

     =幕府に近づいて尊王攘夷を推す方針から、イギリスに近づいて

      尊王攘夷を反対する方針に変えた

 

 

 ・一方でフランスの公使だったロッシュという人は、幕府を支持する立場に立った

  →そのため、フランスは財政面や軍事面などで幕府を支持する立場を取り続けた

 

 

 

ポイント

・公武合体運動について押さえる

・尊王攘夷運動について、動きや流れなどを中心に押さえる

 

このあたりが今回のポイントです

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