開国の動きについて -海外の動きと開国までの流れ-
開国の動きについて考えてみます
・開国の時の世界の動きについて
・18世紀の後半のイギリスで、産業革命という変革が起きた
※この革命によって、工業化がヨーロッパ各地やアメリカなどに広がっていった
=そのため、欧米の国々が工業の生産力と軍事力を持つようになった
→そこで欧米の国々は、他国の市場や原料の供給のために、植民地を求めに動き始めた
・清がアヘン戦争という戦争でイギリスに負けたため、南京条約という条約を結んだ
→そのため、清が香港の一部をイギリスにゆずり、開国をすることになった
=そこで日本は、1842年に異国船打払令を緩めて、薪水給与令という法律を作った
※薪水給与令・・日本にたどりついた外国船に燃料や食糧を与えた法律のこと
→上のような状況で、1844年にオランダの国王が幕府に直筆の手紙を送って
開国を求めてきた
=しかし、日本は開国を拒否して、鎖国の体制を守り抜こうとした
※日本は、以前から鎖国の状況で、世界情勢が理解しきれてなかったので、
開国を拒否したと言われている
※アメリカは、清との貿易のための船や捕鯨船が寄るための港として、
日本が開国することを期待していた
・開国の動きについて
・1846年に、アメリカ東インド艦隊司令長官のビッドルという人が
浦賀に来て貿易を求めた
→この要求に対して、日本は拒否した
※しかし、アメリカは1848年にメキシコからカリフォルニアを奪ったため、
アメリカと清の貿易がより一層活発になった
→結果的に日本の開国がさらに求められるようになった
・1853年4月に、アメリカ東インド艦隊司令長官のペリーという人が
琉球王国の那覇に寄った
→ペリーは那覇を拠点にして、1853年6月に軍艦(黒船)4隻を連れて浦賀沖に来た
=この時に、アメリカのフィルモア大統領という人の手紙を渡して、
日本の開国を求めた
→幕府は特に対策がない状況で、ペリーの態度に後押しされたため、手紙を受け取った
※その時に、開国するかどうかの答えは来年にするということで、
ペリーにはいったん帰ってもらった
→さらに、1853年7月に、ロシアの使いだったプチャーチンという人が長崎に来た
※その時に、開国と、日本とロシアの国境を決めることを求めてきた
・ペリーが1854年の1月に、7隻の艦隊を連れてもう一度日本に来た
→その時に、日本と条約を結ぶことを強要してきたため、
幕府は3月に日米和親条約という条約を結んだ
※日米和親条約の内容
・アメリカ船が求める燃料や食糧などを供給すること
・ボロボロになった船や乗組員を助けること
・下田と箱館の2つの港を開いて、アメリカの領事という機関の駐在を認めること
・アメリカに一方的な最恵国待遇を与えること
※最恵国待遇・・日本がアメリカに与えた条件よりも有利な条件を
他の国と契約した場合、アメリカにもその条件が認められること
→幕府は、イギリス、ロシア、オランダとも同じ内容の和親条約を結んだ
=このため、200年以上続いた鎖国政策が終了したと言われている
※ロシアは、プチャーチンという人を再び日本に送って、
下田で日露和親条約という条約を結んだ
→日露和親条約の内容
・下田と箱館に加えて、長崎を開港すること
・国境について、択捉島よりも南側を日本の土地、
得撫島よりも北側をロシアの土地にすること
・択捉島と得撫島の間にある樺太は、両国人雑居の地ということで
境界を決めないこと
ポイント
・開国の時の世界の動きについて押さえる
・開国までの流れとその時の様子を押さえる
このあたりが今回のポイントです
コメント
実に良くわかりました。ありがとうございました。
とても分かりやすかったです。参考にさせていただきました。