明治時代の近代文学とジャーナリズムについて
明治時代の近代文学とジャーナリズムについて考えてみます
・当時の近代文学とジャーナリズムについて
※1880年~1890年代にかけて、自由民権運動やアジアの状況、条約の改正など
様々な問題について世論が盛り上がるようになっていった
→この状況で、大新聞という政治評論を中心とした新聞が大量に出てきた
・大新聞は、それぞれが自分達なりの政治的な主張を持っていて、
政治の考え方について国民に大きな影響を与えた
※大新聞には、専属の担当者や寄稿する人などを用意した場合もあり、
近代文学の育成と普及を担当したと言われている
・一方で、昔からの瓦版の伝統を引き継ぐ小新聞というのもあり、
報道や娯楽などが中心の大衆向けのものだった
※小新聞は、戯作文学という大衆文芸の盛りあがりに貢献したと言われている
・明治初期に出た「明六雑誌」という雑誌をスタートに、
「国民之友」や「日本人」など、本格的な雑誌の発達が進んでいった
→明治時代の後期には、「太陽」や「中央公論」などの、
総合雑誌という雑誌が作られるようになった
・文学の分野では、江戸時代から出てきた戯作文学という大衆文学が、
明治時代に入っても人気だった
※戯作文学では、仮名垣魯文という人の「安愚楽鍋」などの作品がある
・自由民権論や国権論などを宣伝することを目的に、政治運動をする人達が
政治小説を書いた
※代表的な政治小説に、矢野竜渓という人の「経国美談」や東海散士という人の
「佳人之奇遇」などの小説がある
・戯作文学や政治小説に対して、坪内逍遥という人が「小説神髄」という評論を発表した
→この中で、西洋の文芸の理論を取り入れて、人間の内面や社会を
客観的または写実的に描くことを提唱した
※坪内逍遥に影響を受けた人が何人かいた
・二葉亭四迷という人が「浮雲」という作品を言文一致体というスタイルで書いた
→この作品は、坪内逍遥の考えを実際に行ったものだと言われている
・尾崎紅葉や山田美妙などの硯友社という団体は、
回覧雑誌の「我楽多文庫」という雑誌を作り、写実主義を掲げつつ、
文芸小説を大衆化させようとした
・幸田露伴という人が、坪内逍遥の内面主義を重視して、
東洋の哲学を土台にした理想主義のような作品を作った
・日清戦争の前後に、啓蒙主義や合理主義に反発する形で
ロマン主義文学というのが出てきた
※ロマン主義文学・・感情や個人の動きなどを重視する文学のこと
・ロマン主義のスタートは、北村透谷という人などが作った「文学界」という雑誌だった
※ロマン主義の影響によって、どのような作品が出てきたのか
・森鴎外や泉鏡花などの人達がロマン主義を受けて小説を書いた
・島崎藤村という人が「若菜集」という詩集で、新詩体という詩体を作った
・与謝野晶子という人が、夫の与謝野鉄幹という人が
主宰していた「明星」という雑誌に情熱的な短歌を載せた
※「明星」じゃ、ロマン主義の中心的な存在になったと言われている
・樋口一葉という人が、底辺の女性の悲しさをいくつかの小説に描いた
・正岡子規という人が、俳句の革新と万葉調の和歌の復活をさせようとしたため、
伝統文化の革新ということで注目された
※正岡子規は1897年に俳句雑誌の「ホトトギス」を出し、
その後は高浜虚子という人が受け継いだ
・正岡子規の弟子だった伊東左千夫や長塚節などの人が和歌で出てきて、
1908年に「アララギ」という短歌雑誌を作った
・日清戦争後に、徳冨蘆花(徳富蘇峰の弟)という人が社会小説を書いた
・日露戦争の前後に、フランスやロシアにあった自然主義文学という文学の
影響を受けるようになった
→そのため、自然主義(社会の暗く重い現実をありのままに描く主義のこと)が
文学で中心になった
※その時に、国木田独歩、田山花袋、島崎藤村、徳田秋声などの作家が出てきた
・石川啄木という人は、ロマン主義からスタートしたものの、
後で社会主義の考え方を取り入れた生活詩というものをうたった
・自然主義に対抗する形で、いくつかの作品が出てきた
→夏目漱石という人は、知識人の内面や生活を、国家や社会との関係で
とらえようとした
→森鴎外という人は、歴史小説を出した
・文芸作品の批評が新聞や雑誌に載るようになった
→そのため、作家だけでなく、批評家も重要な存在になってきた
ポイント
・当時の文学の状況を押さえる
・当時のジャーナリズムの様子を押さえる
このあたりが今回のポイントです