明治時代の重工業と農業について

閲覧数:1,129
投稿者:       投稿日時:2013/10/28 10:02      
(まだ評価されていません。)
コメント数: 0       お気に入り登録数:2

LINEで送る
Pocket

明治時代の重工業と農業について考えてみます

 

 

・当時の重工業について

 

 

 ・重工業では、三菱長崎造船所というところが成長した以外は、民間で著しい成長は無かった

  ※材料になる鉄鋼も輸入に頼っていた

 

 

 ・そこで、当時軍備の拡張を目指していた政府は、官営軍事工場を拡大すると同時に、

  鉄鋼の国産化を目指した

  →そのため、1897年に北九州に官営八幡製鉄所という製鉄所を作った

   ※八幡製鉄所は1901年にドイツの技術を取り入れて製鉄をスタートさせた

    →いくつもの困難はあったが、生産は少しずつ伸びていった

 

 

 ・日露戦争の後に、政府は海外からの借金を増やすと同時に、様々な税の増税を行った

  →このようにすることで、軍備拡張や政府の保護のもとに民間重工業の発達を促した

 

 

 ・鉄鋼業では、官営八幡製鉄所が拡大されていった

  ※日本は、中国の大きな製鉄会社の漢冶萍公司という会社にお金を貸していたので、

   その見返りとして八幡製鉄所は中国にある大冶鉄山という鉄山の

   鉄鉱石を安い値段で入手した

 

 

 ・一方で、日本製鋼所などの民間の製鋼会社が作られるようになった

 

 

 ・政府が重視していた造船の技術が、世界水準までになった

 

 

 ・工作機械(機械を作る機械)の分野で、池貝鉄工所というところが

  先進国レベルの精度がある旋盤という工作機械を日本で作ることに成功した

 

 

 ・水力発電が始まったため、電力事業が行われるようになった

  ※電力事業が行われるようになったことで、大都市では電灯が置かれるようになった

 

 

 

 ・三井や三菱などの財閥は、多角的な経営を行った

  →その時に、他の会社の株を持つことで、様々な分野の会社を支配するスタイルを整えた

   =このスタイルをコンツェルン(企業連携)という

 

   ※コンツェルンはどのようにできたのか

    ・1909年に、三井財閥が三井合名会社という会社を作った

    ・1920年代初めに安田、三菱、住友のそれぞれの財閥が

     持株会社という会社を作った

     →持株会社は、財閥の家族によって直接支配され、多くの株式を持っていた

    ※三井、安田、三菱、住友の四大財閥以外にも、古河市兵衛、浅野総一郎、

     川崎正蔵などの中小の財閥もあった

 

 

 

 

 ・日露戦争の後には、以下のような交流があり、日本経済の中で

  植民地の存在が大きくなってきた

  →・満州-綿布を満州に輸出して、大豆粕を満州から輸入

   ・朝鮮-綿布を朝鮮に渡して、お米をもらう

   ・台湾-お米や原料糖などを台湾からもらう

    (朝鮮と台湾は輸出と輸入の関係ではなく、植民地と被植民地の関係)

 

 

 ・日露戦争の後には、生糸や綿布などの輸出が増えたが、綿花や軍需品、

  重工業の材料などの輸入も増えていた

  →そのため、貿易による収入と支出について、日本はほとんど赤字という状態だった

   ※さらに、当時は海外から借りているお金の利払いがあった

    =そのため、日本の赤字の増え方は段々と危なくなっていった

 

 

 

 

 

・当時の農業について

 

 

 ・工業と比べた時に、当時の農業は発展が遅かった

  →そのため、当時も米作を中心とした零細経営が多かった

 

 

 ・大豆粕などの金肥が普及したり、品種改良が行われたりしたので、

  単位面積当たりの収穫量は増えた

  ※しかし、都市の人口が収穫量の増加を上回る勢いで増加していたため、

   お米の供給は不足することが多かった

  ※品種改良のために、日本は1893年に農事試験場という施設を作った

 

 

 ・貿易と国内の工業が発達したことで、農家も商品経済に巻き込まれるようになった

  →そのため、自分で着る服の生産が減った

 

 

 ・安い値段の輸入品が増えてきたため、綿、麻、菜種などの生産が減った

  →一方で、生糸の輸出が増えたため、桑の栽培や養蚕などが行われるようになった

 

 

 

 ・1880年代の松方財政の時のデフレに向かわせるための政策によって、

  小作料の金額が上がっていった

  →小作料の上昇は1890年代も続き、下層の農民が小作に落ちてしまう

   ということが多くなってきた

   ※そこで政府は、2つの法律を作って、農家の経営を維持させようとした

    ・1899年の農会法・・農業の発達や改良をしようとする農会に

                補助金を出す法律のこと

    ・1900年の産業組合法・・協同組合の設立を促す法律のこと

 

 

 ・一方で、大地主は自分で耕作するのをやめて、小作料の収入だけで

  生活しようとする人が増えてきた

  =このような人を寄生地主と言い、このような制度を寄生地主制という

 

 

 ・小作料は現物で納め、地価は金で納めるというルールがあったため、

  米価が上昇したら地主の収入も増えた

  →そこで、地主は小作料の収入をもとにして企業を作ったり、

   公債や株式に投資したりした

   =このような行動を取ることで、地主が段々と資本主義と

    つながるようになっていった

 

 

 ・逆に、小作料の支払いが難しい小作農は、自分の女の子どもを工場に

  出稼ぎに行かせたり、副業を行ってみたりすることで、

  なんとかして家計をまわしていた

 

 

 ・日露戦争の後は、地租や間接税の金額が上がった状況で、農業生産が止まったり、

  農村で貧乏な人が増えたりしたことが社会問題にまで発展した

 

 

ポイント

・当時の重工業を押さえる

・当時の農業を押さえる

 

このあたりが今回のポイントです

 

閲覧数:1,129
LINEで送る
Pocket


(この記事はまだ評価されていません)
Loading ... Loading ...
投稿者:
投稿日時2013/10/28 10:02

コメント数: 0
お気に入り登録数:2



コメントを残す