明治時代の芸術について
明治時代の芸術について考えてみます
・明治時代の演劇について
・明治時代は、演劇が人々に楽しまれるようになった
・明治時代の初期に、河竹黙阿弥という人が出てきて、
文明開化の風俗を取り入れた作品を作った
・明治時代の中期に、9代目市川団十郎、5代目尾上菊五郎、初代市川左団次
という人が出てきた
→この人達は、明治時代の歌舞伎の黄金時代を作り上げたと言われていて、
社会的な地位も上がった
=この3人が活躍した時代を、「団菊左時代」という
・川上音二郎などが、壮士芝居に、日清戦争の前後に人気があった通俗小説を
劇にしたものを加えた
=このような劇を、新派劇という
※壮士芝居・・時事に関する劇に、民権の考え方を取り入れた芝居のこと
・日露戦争後に、坪内逍遥という人が作った文芸協会や小山内薫という人が
作った自由劇場などで、西洋の近代劇を翻訳して上演していた
=このような劇を、新劇という
・明治時代の西洋音楽について
・軍楽隊というのに、西洋音楽が取り入れられたのが最初だった
・その後、伊沢修二という人などの努力によって、
小学校教育に西洋の歌謡をマネした唱歌が取り入れられた
・1887年に東京音楽学校という学校が出来て、専門的な音楽教育が始まった
→この学校から、滝廉太郎などの作曲家が出てきた
・能楽が明治時代の中期から復活した
・明治時代の美術について
・政府は、最初に工部美術学校という学校を作って、外国人教師に西洋美術を教えさせた
※その後、アメリカ人のフェノロサや岡倉天心などの影響によって、
政府が伝統美術を育てる方針に変えたので、工部美術学校を閉めた
→そこで、1887年に西洋美術を取り除いて、東京美術学校という学校を作った
・政府の美術の保護に支えられて、橋本雅邦や狩野芳崖などの人達が出てきて、
日本画を作った
※なぜ、日本は伝統美術を保護しようとしたのか
→理由の一つに、ヨーロッパで日本画の評価が高かったからだと言われている
・当時の西洋画について
・高橋由一という人などが西洋画をスタートさせた
※ただし、西洋画は一時的に衰退した
→しかし、浅井忠という人などが日本で最初の西洋美術団体の明治美術会を作ったり
フランス印象派という画派を学んだ、黒田清輝という人が帰ってきたりしたため、
段々と西洋画が盛んになった
・1896年に、東京美術学校に洋画科という学科が作られた
・一方で、黒田清輝などは、白馬会という団体を作って、洋画を発展させていこうとした
・当時の伝統美術について
・岡倉天心などが作った日本美術院などを中心に、様々な美術の団体が競争して
盛り上がる状況だった
・政府は、伝統美術と西洋美術が両方とも栄えることを願った
→そのため、1907年に文部省美術展覧会(文展)を開いて、
伝統美術と西洋美術が共通で発表できる場所というのを作った
※文展について
・第1次西園寺内閣の文部大臣を担当した牧野伸顕という人が、
文部省や東京美術学校の関係者などの意見を取り入れて、日本画、洋画、彫刻の
3部門で行われる総合展覧会を開いた
=この展覧会を文展と言い、第1回文展を開いた
→文展は何度も開かれ、1919年には、帝国美術院美術展覧会(帝展)に変わった
・明治時代の彫刻について
・高村光雲という人が伝統的な木彫を行い、フランスのロダンという人から
教わって帰ってきた荻原守衛という人が西洋の彫塑を行った
→この、木彫と彫塑が対立して、競争することで彫刻が発達していった
※しかし、文展が出てきたことによって、彫刻も木彫と彫塑が共存する形になった
・明治時代の工芸と建築について
・工芸にも、西洋の技術が取り入れられるようになった
→その時に、陶器、ガラス、漆器、七宝などが作られるようになった
※中でも、陶器と七宝は海外に輸出されることもあった
・建築にも、西洋の技術が取り入れられるようになった
※明治時代の末期には、鉄筋コンクリートを使った建物が
建てられるようになった
ポイント
・当時の演劇について押さえる
・当時の西洋音楽について押さえる
・当時の美術について押さえる
・当時の西洋画、伝統美術、彫刻について押さえる
・当時の工芸と建築について押さえる
このあたりが今回のポイントです