自由民権運動について③
自由民権運動について、民権運動が激しくなっていった時期について考えてみます
・自由民権運動について
・松方財政の行動によって、民権運動に以下のような影響を与えた
→・自由民権運動の支持者だった地主や農民の中で、生活が苦しくなって
運動に参加してる余裕がない人が民権運動をやらなくなっていった
・逆に、同じ事情で早く民権運動が進んでより良い生活になることを求めて、
積極的に民権運動に参加する人も出てきた
・1882年に、集会条例という条例を改正した
→その結果、政党の支部を作ることを禁止したものの、
一方で自由党の板垣退助の留学の援助などを行った
※ゆっくりと民権運動が展開することを期待していた伊藤博文や井上馨などは、
裏で三井から留学の費用を出させて、自由党の板垣退助や後藤象二郎などを
留学させた
→この時に、立憲改進党が留学の費用がどこから出ているのかを突き止めて
指摘したが、自由党側は大隈重信と三菱の関係を指摘することで反撃をした、
という背景がある
・板垣退助の留学は、立憲改進党からだけでなく、自由党の内部からも批判された
→そのため、板垣退助が民権運動を仕切ることが出来なくなり、
仕切る人がいなくなってしまった
・一方で、政府の行動や増税政策などに反発する農民や自由党の党員が、
以下のような直接的な行動を起こした
→・1882年に福島事件という最初の事件が起きた
※福島事件・・福島の県令だった三島通庸という人が不況にも関わらず、
農民に労役を命令して県道を作ろうとしたことに対して
農民が抵抗した事件のこと
→三島通庸はこの事件を口実にして、河野広中などの
福島の自由党員を検挙している
・その後、北陸や東北で、加波山事件、高田事件、群馬事件などの事件が次々と起きた
・1884年に埼玉県の秩父で、困民党という名前で約3000人の農民が
増え続ける自分達の借金の減免を求めて、高利貸、郡役所、警察などを襲った
→そのため、政府は軍隊まで使って困民党の行動を鎮圧させた
=この出来事を秩父事件という
・上のような事件は、全てが自由党の指導ではなかった
※しかし、党員の結束力に自身を失い、民権運動のための資金の不足ということも出てきた
→そのため、加波山事件の後に自由党は政党を解散させた
※立憲改進党も、トップの大隈重信を中心とした指導者たちが党を離れるという事が起きた
→そのため、立憲改進党は事実上の解散ということになった
・1885年に自由党の改革派だった大井憲太郎という人などが、朝鮮に行って、
朝鮮の保守的な政府を武力で倒そうとする計画を考えた
→しかし、大井憲太郎などは実行する前に事前に大阪で検挙されるという出来事が起きた
=この出来事を大阪事件という
→以上のような流れによって、民権運動は弱くなっていった
・しかし、国会の開設の時期が近づくと、民権派の中で再結集して
運動をするという計画が考えられた
→そこで、1887年に、後藤象二郎という人が大同団結を提唱した
※大同団結運動・・自由党と立憲改進党が昔は対立していたが、
国会を開設するという共通の目的はあったため、
自由党と立憲改進党だった人達が一緒になって国会の開設を
求めようとする運動のこと
→さらに、大同団結側が井上馨という人の条約改正の失敗をきっかけに
三大事件建白運動という運動を行った
※三大事件建白運動・・地租の軽減、言論集会の自由、対等条約の締結の3つを
要求する運動のこと
→政府は、大同団結に対抗して1887年の終わりに政府が保安条例という条例を作った
※保安条例・・大同団結を取り締まって、東京にいる民権派を
東京から追い出した条例のこと
→大同団結運動は、東京を追い出された後は東北を中心に続けた
=1889年の憲法の発布の時に、大同団結で政党を再び作る動きが出てきた
ポイント
・自由民権運動の流れを押さえる
このあたりが今回のポイントです