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	<title>アラエス &#187; 教育勅語</title>
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	<item>
		<title>大日本帝国憲法と議会の始まりをまとめてみた</title>
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		<comments>http://ahlaes.com/post/2429#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 27 Jan 2014 03:15:20 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[橋本真夜中]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[明治時代前期]]></category>
		<category><![CDATA[伊藤博文]]></category>
		<category><![CDATA[内閣制度]]></category>
		<category><![CDATA[大日本帝国憲法]]></category>
		<category><![CDATA[天皇中心]]></category>
		<category><![CDATA[帝国議会]]></category>
		<category><![CDATA[教育勅語]]></category>
		<category><![CDATA[枢密院]]></category>
		<category><![CDATA[民党]]></category>
		<category><![CDATA[衆議院議員総選挙]]></category>
		<category><![CDATA[貴族院]]></category>

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		<description><![CDATA[国会開設を約束した政府は、伊藤博文などをヨーロッパに送って、ドイツの政治や制度を学んだ →帰国後、1885年に内閣制度を確立して、初代の内閣総理大臣になった ※その後、伊藤博文を中心に憲法案が作られた →この憲法案は、枢 [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/2429">大日本帝国憲法と議会の始まりをまとめてみた</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>国会開設を約束した政府は、<strong>伊藤博文</strong>などをヨーロッパに送って、ドイツの政治や制度を学んだ</p>
<p>→帰国後、1885年に<strong>内閣制度</strong>を確立して、初代の内閣総理大臣になった</p>
<p>※その後、伊藤博文を中心に憲法案が作られた</p>
<p>→この憲法案は、<strong>枢密院</strong>で非公開で審議された後、1889年2月11日に天皇から国民に与える形で、<strong>大日本帝国憲法</strong>として出した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>※憲法の発布によって、以下のようなことが起きた</p>
<p>・天皇が軍隊の統率、外国との条約の締結など、憲法の規定に従って、大臣などの補佐により、国を統治した（＝天皇中心の国の仕組み）</p>
<p>・国会（<strong>帝国議会</strong>）は、<strong>衆議院</strong>と<strong>貴族院</strong>の二院制とした</p>
<p>・国会は、法律の制定、予算の決定などの権限もあった</p>
<p>・国民は、憲法によって、制限はあるが様々な権利が認められた</p>
<p>・アジアで唯一の、憲法と議会を持つ近代的な国家となった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>憲法と議会の整備の後、民法や地方自治制度が整備された</p>
<p>※最も有名なのは、<strong>教育勅語</strong>だった</p>
<p>→1890年に教育勅語が出され、天皇を中心とする国民の精神統一が目指された</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>議会では、1890年に最初の衆議院議員の総選挙が行われ、<strong>第1回帝国議会</strong>が開かれた</p>
<p>→衆議院は、自由民権派の影響を受ける<strong>民党</strong>（立憲自由党と立憲改進党）が多数だった</p>
<p>※当時の有権者は、直接国税15円以上を納める25歳以上の男子のみだった</p>
<p>&nbsp;</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/2429">大日本帝国憲法と議会の始まりをまとめてみた</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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		<item>
		<title>キリスト教と国民の道徳について　－平民主義・国粋主義・教育勅語・キリスト教の導入・内村鑑三－</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/1636</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/1636#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 14 Nov 2013 20:16:36 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[マイコ]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本思想後期　－近現代－]]></category>
		<category><![CDATA[三宅雪嶺]]></category>
		<category><![CDATA[内村鑑三]]></category>
		<category><![CDATA[岡倉天心]]></category>
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		<category><![CDATA[教育勅語]]></category>
		<category><![CDATA[新渡戸稲造]]></category>
		<category><![CDATA[明治時代]]></category>
		<category><![CDATA[欧化主義]]></category>
		<category><![CDATA[西村茂樹]]></category>
		<category><![CDATA[陸羯南]]></category>

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		<description><![CDATA[明治時代の日本におけるキリスト教と人々の道徳について考えます &#160; &#160; ・当時の背景 　・極端な欧化主義（欧米のように変わっていこうという考え方のこと）の体制を取っていた 　　→欧化主義をスムーズに行う [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/1636">キリスト教と国民の道徳について　－平民主義・国粋主義・教育勅語・キリスト教の導入・内村鑑三－</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>明治時代の日本におけるキリスト教と人々の道徳について考えます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・当時の背景</p>
<p>　・極端な欧化主義（欧米のように変わっていこうという考え方のこと）の体制を取っていた</p>
<p>　　→欧化主義をスムーズに行うという狙いも含め、官僚が国の主導権を握っていた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　→このような風潮に対して、抵抗した人々が現れた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・三宅雪嶺や陸羯南・・国粋主義を提唱した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　※国粋主義・・日本に昔からある伝統を大切にし、欧化主義を批判する考え方</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・徳富蘇峰・・平民主義を提唱した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　※平民主義・・官僚による上からの西洋化ではなく、</p>
<p>　　　　　　　　平民による下からの西洋化が大切だという考え方</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　→この２つの考え方は後に論争となった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　※また、当時、岡倉天心という人が、「西洋の根本は力だが、</p>
<p>　　東洋の原理は美と精神である」と考えた</p>
<p>　　→そのため、岡倉天心は、日本美術の復興と紹介に力を入れた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・国民道徳について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・国民道徳について考えた人の中で有名な人に、西村茂樹という人がいる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・西村茂樹・・明六社の一員で、「日本道徳論」という本を書いた</p>
<p>　　　　　　　　→その本の中で、国家の基本は制度や法律よりも道徳だと</p>
<p>　　　　　　　　　考えたことを書いた</p>
<p>　</p>
<p>　　→西村茂樹は、儒学を基本とした上で、西洋哲学を取り入れたものを</p>
<p>　　　国民道徳だと考えた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　※国民道徳とは・・日本国民特有の道徳で、日本国民として従ったり守ったりするべき</p>
<p>　　　　　　　　　　だと考えられた道徳のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　→このような考え方も影響し、日本では、「国家の基本を道徳に置こう」</p>
<p>　　という雰囲気が広がっていった</p>
<p>　　※その雰囲気の中、１８９０年に教育勅語が出された</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・教育勅語について</p>
<p>　→忠と孝を中心とする国民道徳を天皇の名前で定めていて、</p>
<p>　　道徳と教育において、国家の指導原理だった</p>
<p>　　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・キリスト教の移入について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・開国から１９年後の１８７３年（明治６年）にキリスト教禁止の高札が撤廃された</p>
<p>　　→そのため、外国の宣教師がキリスト教の活発な布教をはじめとして、</p>
<p>　　　教育や社会福祉活動、廃娼運動などを行った</p>
<p>　　※高札・・江戸時代に法律などを一般の人達にに告示するために</p>
<p>　　　　　　　広場などに掲げた板の札のこと</p>
<p>　　※廃娼運動・・公娼（世間で認められた売春婦のこと）を</p>
<p>　　　　　　　　　廃止することを目的とした運動のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→上のような影響を受けて、内村鑑三や新島襄をはじめとする多くの若い知識人が</p>
<p>　　　プロテスタンティズムに魅了された</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※新島襄は、同志社英学校を作り、キリスト教的精神主義にもとづく教育を行った</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・内村鑑三について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・内村鑑三は、内面的独立と平等を提唱した</p>
<p>　　→キリストを信じる人は、自分の心の面において、道徳に忠実で、</p>
<p>　　　気高くなければいけないと考えた</p>
<p>　・無教会主義（教会や儀礼を排除して、直接「聖書」の言葉に基づく信仰を</p>
<p>　　するべきだという考え方）を提唱した</p>
<p>　・キリスト教は、西洋の文明と進歩の根底だと考えた</p>
<p>　・「二つのＪ」（Japan「日本」とJesus「イエス」）は互いに支え合っているから、</p>
<p>　　切り離せないものだと考えた</p>
<p>　　※内村の墓に「私は日本のために/日本は世界のために/世界はキリストのために/そして</p>
<p>　　　全ては神のために」と書いてある</p>
<p>　・内村鑑三は、上のような考え方から教育勅語の考え方に反対していたため、</p>
<p>　　教育勅語に記されていた、「明治天皇の署名を神として扱うこと」という内容を</p>
<p>　　拒否して、礼拝をしなかった</p>
<p>　　＝この出来事を不敬事件と言う</p>
<p>　・日露戦争の時に、日本の世論は主戦論だった中、内村鑑三は非戦論を提唱した</p>
<p>　　→そこで、内村鑑三は「武士道の上に接ぎ木されたるキリスト教」だと考えた</p>
<p>　・「余は如何にして基督信徒となりし乎」「代表的日本人」などを書いた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・内村鑑三に関連して考えた人達について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・井上哲次郎－・国家主義の立場に立って、「教育と宗教の衝突」という本を書いた</p>
<p>　　　　　　　　・キリスト教は忠君愛国（王に真心をこめて、国を愛すること）に</p>
<p>　　　　　　　　　反するものであると考えて否定した</p>
<p>　</p>
<p>　・植村正久など－・君主（その場所での最高位の人）よりすごい存在である神様の存在を</p>
<p>　　　　　　　　　　認めることで国家が人類の進歩に役に立つことがわかると考えた</p>
<p>　</p>
<p>　※この２つの考え方は対立し、論争となった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・新渡戸稲造－・「武士道」という本を書いた</p>
<p>　　　　　　　　・キリスト教が日本で発展するためには、</p>
<p>　　　　　　　　　道徳の根本である武士道が思い起こされなければならないと考えた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・日本は当時、極端な欧化主義を取っていた</p>
<p>・三宅雪嶺や陸羯南は国粋主義を、徳富蘇峰は平民主義を提唱した</p>
<p>・西村茂樹が国民道徳について考えた</p>
<p>・明治６年にキリスト教禁止の高札の撤廃が起き、それをきっかけに様々な運動が起こった</p>
<p>・内村鑑三は、内面的独立、平等、無教会主義などを提唱した</p>
<p>・内村鑑三は、「２つのＪ」や非戦論を提唱した</p>
<p>・内村鑑三が、不敬事件に関連した</p>
<p>・井上哲次郎は国家主義の立場に立ち、キリスト教を否定した</p>
<p>・植村正久などが、神の存在を認めることで、国家が人類の進歩に役に立つと考えた</p>
<p>・新渡戸稲造は、キリスト教が日本で発達するためには、武士道が重要だと考えた</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/1636">キリスト教と国民の道徳について　－平民主義・国粋主義・教育勅語・キリスト教の導入・内村鑑三－</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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		<item>
		<title>明治時代の教育と科学について</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/1278</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/1278#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 28 Oct 2013 03:23:43 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[副店長]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[明治時代後期]]></category>
		<category><![CDATA[不敬事件]]></category>
		<category><![CDATA[九帝大]]></category>
		<category><![CDATA[国定教科書]]></category>
		<category><![CDATA[大隈重信]]></category>
		<category><![CDATA[学制]]></category>
		<category><![CDATA[学校令]]></category>
		<category><![CDATA[忠君愛国]]></category>
		<category><![CDATA[教育令]]></category>
		<category><![CDATA[教育勅語]]></category>
		<category><![CDATA[東京大学]]></category>

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		<description><![CDATA[明治時代の教育と科学について考えてみます &#160; &#160; ・明治時代の教育について &#160; &#160; 　・１８７２年に、学制という法律が作られ、小学校教育が普及する努力が 　　行われるようになった  [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/1278">明治時代の教育と科学について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>明治時代の教育と科学について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・明治時代の教育について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１８７２年に、学制という法律が作られ、小学校教育が普及する努力が</p>
<p>　　行われるようになった</p>
<p>　　→その結果、義務教育によって学校に行くようになる率が高まっていった</p>
<p>　　　※しかし、学制は地方の状況を無視して全員に強制かつ同じように扱われたため、</p>
<p>　　　　政府の中からも外からも批判された</p>
<p>　　　　＝そのため、１８７９年に学制が無くなり、教育令という法律が</p>
<p>　　　　　出されるようになった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・教育令では、全国画一だった学区制という制度を無くした</p>
<p>　　→その時に、町村を小学校の設置の単位にした</p>
<p>　　　※小学校の管理は地方に任せ、学校に行く義務は大幅に緩くなった</p>
<p>　　　　</p>
<p>　　　※しかし、今まで強制されていたのに突然放任に変えたため、</p>
<p>　　　　大きな混乱の状態になってしまった</p>
<p>　　　　→そのため、教育令が出た次の年に内容が変えられ、</p>
<p>　　　　　小学校教育で政府が監督することが強調された</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　→上のような流れを受けて、１８８６年に、森有礼文部大臣によって、</p>
<p>　　学校令というものが出された</p>
<p>　　＝学校を、小学校、中学校、師範学校、帝国大学などの学校に通う</p>
<p>　　　というような仕組みを作った</p>
<p>　　＝さらに、尋常小学校と高等小学校のそれぞれの４年のうち、</p>
<p>　　　尋常小学校の３～４年を義務教育にした</p>
<p>　　　※その後、１９０７年に義務教育が６年間に延ばされた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※学校令について</p>
<p>　　　　・小学校令、中学校令、師範学校令、帝国大学令などをまとめて学校令という</p>
<p>　　　　・小学校、中学校、師範学校は、それぞれ尋問・高等の２種類に分けられた</p>
<p>　　　　　→その中で、尋問中学校が中学校、高等中学校が高等学校に名前を変えた</p>
<p>　　　　・唯一の官立大学であった東京大学は、帝国大学に組み替えられた</p>
<p>　　　　　→帝国大学は、１８９７年に東京帝国大学に名前が変わった</p>
<p>　　　　</p>
<p>　　　※１８９２年の時は、学校に行く率が男子は７０％、女子は３６％だった</p>
<p>　　　　→その後、１９００年に義務教育の期間の授業料が無料になったため、</p>
<p>　　　　　学校に行く率が１９０２年に９０％を超えた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・明治時代の教育では、様々な制度が作られている裏で、</p>
<p>　　国家主義を重視する教育政策を採用する方向に向かっていった</p>
<p>　　→そこで、１８９０年に出された教育に関する勅語（教育勅語）というものを出して、</p>
<p>　　　忠君愛国の考え方が学校教育の根本であることが強調された</p>
<p>　　　※忠君愛国・・天皇に仕えて、国を愛する、という考え方のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※忠君愛国について、１８９１年に、キリスト教徒の内村鑑三という人が、</p>
<p>　　　　自分が講師だった第一高等中学校での教育勅語奉読式という式の時に、</p>
<p>　　　　教育勅語への拝礼を拒否したため、内村鑑三が責められるという事件が起きた</p>
<p>　　　　＝この出来事を不敬事件という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１９０３年に小学校の教科書で国定教科書を使うことが決められ、</p>
<p>　　教育を国家がコントロールする動きが強まった</p>
<p>　　※国定教科書・・文部省が作った教科書のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・官立の高等教育機関が作られるようになっていった</p>
<p>　　→東京大学に加えて、１８９７年に京都帝国大学、</p>
<p>　　　その後に東北や九州などのそれぞれの帝国大学が作られていった</p>
<p>　　　※結果的に、大正から昭和初期の間に、北海道、京城（朝鮮）、台北（台湾）</p>
<p>　　　　名古屋、大坂にそれぞれの帝国大学が作られていった</p>
<p>　　　　＝これらの帝国大学を、「９帝大」という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　</p>
<p>　・民間では、大隈重信が作った東京専門学校（現在の早稲田大学）などの</p>
<p>　　私立学校が作られていった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・明治時代の科学について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・明治の初めに、欧米から多くの専門的な学者を呼んできたことで、</p>
<p>　　近代的な学問の研究が本格的に始まった</p>
<p>　　→その後、日本人の学者が自分達でそれぞれの分野の専門的な研究や教育が</p>
<p>　　　行われるようになっていった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・経済学の分野では、最初にイギリスの経済学が入ってきて、</p>
<p>　　その後にドイツの考え方が中心になった</p>
<p>　　※イギリス経済学・・自由放任にする経済政策や自由貿易などを主張する経済学</p>
<p>　　　ドイツ経済学・・保護貿易や社会政策の推進などを主張する経済学</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・法律学の分野では、最初にフランスから来たボアソナードという人が</p>
<p>　　法典の編纂をしたことで始まった</p>
<p>　　→しかし、その後に起きた民法典論争がきっかけで、ドイツの法律学が中心になった</p>
<p>　　　※そのため、哲学の分野でもドイツ観念論という考え方を中心とした</p>
<p>　　　　ドイツの哲学が中心になった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・自然科学の分野では、富国強兵や殖産興業などのための政策を行うために、</p>
<p>　　欧米の近代的な科学技術を日本に取り入れるようになった</p>
<p>　　→さらに、外国人の指導者の指導もあって、日本は世界レベルの研究結果も</p>
<p>　　　発表されるようになった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　</p>
<p>　・日本史と日本文学の分野では、西洋の研究の方法が取り入れられた</p>
<p>　　→そのため、日本史や日本文学などで科学的な研究が始まり、</p>
<p>　　　今までの国学者の研究が新しくなった</p>
<p>　　　</p>
<p>　　※日本史の分野では、田口卯吉という人の「日本開化小史」というものを</p>
<p>　　　代表とした文明史論が出てきた</p>
<p>　　　→この考え方によって、当時の歴史の見方が変わったと言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※東京帝国大学では、史料編纂掛というところが「大日本史料」や</p>
<p>　　　「大日本古文書」など、基本的な資料を編纂する事業が行われた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※当時の科学的な研究は、日本に昔からある伝統的な考え方とぶつかることがあった</p>
<p>　　　→１８９１年には、帝国大学の教授だった久米邦武という人が、</p>
<p>　　　　神道は宗教ではないという考えによって「神道は祭天の古俗」と論じたため、</p>
<p>　　　　国粋主義者などに責められるという事件が起きた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・明治時代の教育について押さえる</p>
<p>・明治時代の科学について様々な分野を押さえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p>
<p>&nbsp;</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/1278">明治時代の教育と科学について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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