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	<title>アラエス &#187; 文治主義</title>
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	<item>
		<title>徳川綱吉の幕府の政治について　－元禄時代の始まり－</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/1211</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/1211#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 24 Oct 2013 08:48:45 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[パワフルくん]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[江戸時代中期]]></category>
		<category><![CDATA[堀田正俊]]></category>
		<category><![CDATA[徳川綱吉]]></category>
		<category><![CDATA[文治主義]]></category>
		<category><![CDATA[明暦の大火]]></category>
		<category><![CDATA[服忌令]]></category>
		<category><![CDATA[柳沢吉保]]></category>
		<category><![CDATA[生類憐みの令]]></category>
		<category><![CDATA[禁裏御料]]></category>
		<category><![CDATA[聖堂学問所]]></category>
		<category><![CDATA[赤穂事件]]></category>

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		<description><![CDATA[５代将軍徳川綱吉の幕府の政治について考えてみます &#160; &#160; ・徳川綱吉の政治について &#160; &#160; &#160; 　・１７世紀後半に、５代将軍徳川綱吉が政権についた 　　＝この時から、元禄 [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/1211">徳川綱吉の幕府の政治について　－元禄時代の始まり－</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>５代将軍徳川綱吉の幕府の政治について考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・徳川綱吉の政治について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１７世紀後半に、５代将軍徳川綱吉が政権についた</p>
<p>　　＝この時から、元禄時代という時代が始まった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※徳川綱吉の政治は、大老の堀田正俊という人が補佐をした</p>
<p>　　　→しかし、堀田正俊が暗殺されるという出来事が起きた</p>
<p>　　　　＝そのため、その後は側用人という役職だった柳沢吉保という人が</p>
<p>　　　　　徳川綱吉の補佐をした</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１６８３年に、代がわりの武家諸法度が出された</p>
<p>　　→その武家諸法度の第一条が、「弓馬の道」から、</p>
<p>　　　「文武忠孝を励し、礼義を正すべきこと」に変えられた</p>
<p>　　</p>
<p>　　　※「文武忠孝を励し、礼義を正すべきこと」とは、どういうことか・・　　</p>
<p>　　　　・武士に、忠（主人に尽くすこと）、孝（親を大切にすること）、</p>
<p>　　　　　礼義による秩序を重要視しようとした</p>
<p>　　　　　＝この考え方を文治主義という</p>
<p>　　　　　　→文治主義は儒教が根底にあり、徳川綱吉は儒教を重視した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※徳川綱吉は儒教を重視した結果、どのようなことを行ったのか</p>
<p>　　　　・木下順庵という人から勉強して、湯島聖堂という建物を作った</p>
<p>　　　　　→その時に、林鳳岡（信篤）という人を、大学頭（湯島聖堂の長）に任命した</p>
<p>　　　　・林羅山という人が作った孔子廟と私塾を湯島に移して、学問所として整備させた</p>
<p>　　　　　＝この学問所を、聖堂学問所という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※徳川綱吉は礼儀を重視した結果、どのようなことを行ったのか</p>
<p>　　　　→秩序を重視しようとして、以下のようなことを行った</p>
<p>　　　　　・天皇や朝廷に対する政策を変えた</p>
<p>　　　　　・朝廷の儀式の中でいくつかを復活させた</p>
<p>　　　　　・禁裏御料（天皇の土地）を増やした</p>
<p>　　　　　・１６８７年に大嘗祭を、１６９４年に賀茂葵祭を復活させた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　　→朝廷の儀式を復活させる中で、赤穂事件という出来事が起きた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　　　※赤穂事件とは・・</p>
<p>　　　　　　・１７０１年に、赤穂藩の藩主だった浅野長矩という人が、</p>
<p>　　　　　　　旗本で朝廷に関係する儀礼を担当した高家の吉良義央という人を傷つけた</p>
<p>　　　　　　・その次の年に、浅野家の遺臣（昔からの家来）が吉良義央を倒した</p>
<p>　　　　　　　＝この出来事を赤穂事件という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・徳川綱吉は、仏教も重視した</p>
<p>　　→そこで、１６８５年から約２０年間、生類憐みの令という法律を作った</p>
<p>　　　※生類憐みの令・・生きているもの全てを殺してはいけないという法律のこと</p>
<p>　　　　→この法律によって、庶民は迷惑だったものの、</p>
<p>　　　　　野犬が暴れ回るという状況は無くなった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→さらに、服忌令という法律を作った</p>
<p>　　　※服忌令・・自分の身近な人が亡くなった時に、忌引きをする日数を決めた法律のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※服忌令によって、何が起きたのか</p>
<p>　　　　・死を嫌う風潮が出てきた</p>
<p>　　　　　→これによって、死んだ牛馬を処理するかわたは、より差別意識が強くなって</p>
<p>　　　　　　差別されるようになった</p>
<p>　　　　・戦国時代から続いた、武力で相手を倒すことでのし上がっていく価値観が</p>
<p>　　　　　否定されることになった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・徳川綱吉の時は、幕府の財政が転換期を迎えたと言われている</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※転換期を迎えた理由</p>
<p>　　　・金銀の産出量が減り、鉱山収入が減った</p>
<p>　　　・１６５７年に明暦の大火という出来事が起こり、江戸城と市街地を復興させる費用と、</p>
<p>　　　　今後の寺社の造営費が増えた</p>
<p>　　　　※明暦の大火・・江戸城と江戸の市街地の大半が燃えてしまった大火事のこと</p>
<p>　　　　→これらの出来事によって、徳川幕府の財政は破綻してしまった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　※破綻した時に、どのようなことを行ったのか</p>
<p>　　　・当時、勘定吟味役（後の勘定奉行）だった荻原重秀という人が、</p>
<p>　　　　収入を増やす方針として、貨幣を作りなおすことを提案し、徳川綱吉が提案を認めた</p>
<p>　　　　→そこで幕府は、金を減らして、質の低い小判を大量に作ることで多くの収入を得た</p>
<p>　　　　　※しかし、貨幣の価値を下げたことで、物価が上昇してしまい、</p>
<p>　　　　　　人々が苦しい生活を強いられるようになった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　</p>
<p>　　・さらに財政を圧迫する理由として、１７０７年に富士山の大噴火が起きた</p>
<p>　　　→富士山の噴火によって、駿河や相模などの国は砂が降り、大きな被害をもたらした</p>
<p>　　　　※幕府は復興のために、全国に「諸国高役（国役）金」というものを、</p>
<p>　　　　　１００石につき２両の割合での徴収を行った</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・徳川綱吉の政治を押さえる</p>
<p>・徳川綱吉の時の財政を押さえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p>
<p>&nbsp;</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/1211">徳川綱吉の幕府の政治について　－元禄時代の始まり－</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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		<item>
		<title>宋の統治と統治に関する動きについて</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/800</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/800#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 10 Oct 2013 08:23:20 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[天然パーマ]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[東アジア千年史]]></category>
		<category><![CDATA[太宗]]></category>
		<category><![CDATA[宋]]></category>
		<category><![CDATA[官吏登用法]]></category>
		<category><![CDATA[形勢戸]]></category>
		<category><![CDATA[文治主義]]></category>
		<category><![CDATA[新法]]></category>
		<category><![CDATA[杭州]]></category>
		<category><![CDATA[科挙]]></category>
		<category><![CDATA[趙匡胤]]></category>
		<category><![CDATA[靖康の乱]]></category>

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		<description><![CDATA[宋の統治とその動きについて考えてみます &#160; &#160; ・宋の統治について &#160; &#160; 　・五代の後周の将軍だった趙匡胤という人は、９６０年に宋（北宋）という国を作った 　　→その次に出てきた [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/800">宋の統治と統治に関する動きについて</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>宋の統治とその動きについて考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・宋の統治について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・五代の後周の将軍だった趙匡胤という人は、９６０年に宋（北宋）という国を作った</p>
<p>　　→その次に出てきた太宗という人は、中国を統一した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・宋は、文治主義という動きをとった</p>
<p>　　※文治主義・・軍人ではなく、学識のある文人の官僚によって政治を行うこと</p>
<p>　　※なぜ、宋は文治主義をとったのか</p>
<p>　　　→当時の宋は、藩鎮勢力が大量に出てきていたり、武断政治の風潮が強かったから</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・宋では、節度使が足りなくなるたびに、文官を当てて兵力や財力を奪っていた</p>
<p>　　→こうすることで、皇帝の親衛軍を強化していた</p>
<p>　　　＝当時は、中央集権を目指していた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・宋では、科挙が官吏登用法の中心として扱われるようになった</p>
<p>　　※隋の時代にも科挙はあったが、宋の科挙は官僚になるための唯一の道として扱われていた</p>
<p>　　　さらに、殿試（皇帝みずからが試験官となって宮中で行う最終試験のこと）も</p>
<p>　　　宋の時代から始まった</p>
<p>　　　→こうすることで、王と官僚とのつながりを強めていたと言われている</p>
<p>　　　　＝以上の動きによって、戦乱の時に没落した貴族ではなく、</p>
<p>　　　　　科挙の官僚が皇帝のそばについて政治を行うようになっていった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※科挙について</p>
<p>　　　　・科挙は、男性であればほとんどが受験することが出来た</p>
<p>　　　　・この時の科挙は、儒学や詩文などを学ぶ必要があり、合格も非常に難しかった</p>
<p>　　　　・結局、科挙で合格できるのは、主に経済力のある新興地主層の人達だった</p>
<p>　　　　　＝貴族に代わって新しく勢力を伸ばしてきたこのような人たちを、形勢戸という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・北宋では、契丹や西夏などの北方の民族に圧迫されていたり、</p>
<p>　　集権的な軍事の体制をとっていたりした</p>
<p>　　→そのため、北宋は防衛費が増えることによる国家財政のピンチというのが</p>
<p>　　　常に大きな問題だった</p>
<p>　　　＝そこで、１１世紀後半に神宗という王が、王安石という人を宰相に使って、</p>
<p>　　　　政治の根本的な改革を狙った</p>
<p>　　　　※王安石が行なった改革を新法という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※新法について</p>
<p>　　　　・青苗、均輸、市易、募役、保甲などの様々な法を作った</p>
<p>　　　　　　→・青苗・・植え付けの時に貧しい農民へ金銭や穀物などを低金利で貸し付けること</p>
<p>　　　　　　　・均輸・・物資の流通を円滑にすることと、物価安定についての策のこと</p>
<p>　　　　　　　・市易・・中小の商人への低金利の貸し付けのこと</p>
<p>　　　　　　　・募役・・力役の代わりに免疫銭を出させて希望者を雇用すること</p>
<p>　　　　　　　・保甲・・民兵の訓練や治安維持のための農村組織のこと</p>
<p>　　　　・王安石は、新法を通して以下の２つを考えていた</p>
<p>　　　　　　→・農民や中小商工業者の生活の安定と生産の増加を目指した</p>
<p>　　　　　　　・経費節減と歳入の増加によって、国家財政の安定と軍事力の強化を狙った</p>
<p>　　　　　　　　＝王安石の新法は、富国強兵の策だった</p>
<p>　　　　・新法は、地主や大商人の利益を低くして、政府の収入を増やすことを目指す改革だった　</p>
<p>　　　　　→そのため、反発する官僚も多かった</p>
<p>　　　　　　＝結果的に、王安石の引退後に新法党と旧法党との対立が長く続くことになった</p>
<p>　　　　　　　※この対立は、宋の国力を弱めることになった</p>
<p>　　　　　　　※旧法党・・司馬光を中心とした王安石の新法に反対する一派のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・１２世紀の初めに金は、遼を滅ぼし、華北を占領した</p>
<p>　　→そして、金は１１２６～２７年に、宋の都である開封を陥落させ、</p>
<p>　　　上皇の徽宗と皇帝の欽宗という人をとらえた</p>
<p>　　　＝この出来事を、靖康の乱という</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　→靖康の乱の後、皇帝の弟の高宗という人が江南に逃れて王の位についた</p>
<p>　　　＝高宗は、南宋という国を作り、臨安（現在の杭州）を首都にした</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※この時、政治の話し合いの中心は、金に対する政策だった</p>
<p>　　　　→政策については、秦檜という人を中心にした和平派と、</p>
<p>　　　　　岳飛という人を中心とした主戦派で対立した</p>
<p>　　　　　＝この対立は、和平派が勝利したため、金との間に和議を結んだ</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　　→この結果、淮河というところを境にして、北は金、南は南宋、</p>
<p>　　　　　というように２つに分かれた状態が続いた</p>
<p>　　　　→そして、宋は金に対して臣下の礼を取り、毎年銀や絹を金に送ることになった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・宋の動きについておさえる</p>
<p>・宋の後の動きについておさえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p>
<p>&nbsp;</p>
</p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/800">宋の統治と統治に関する動きについて</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
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