<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>
<rss version="2.0"
	xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/"
	xmlns:wfw="http://wellformedweb.org/CommentAPI/"
	xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
	xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom"
	xmlns:sy="http://purl.org/rss/1.0/modules/syndication/"
	xmlns:slash="http://purl.org/rss/1.0/modules/slash/"
		xmlns:xhtml="http://www.w3.org/1999/xhtml"
>

<channel>
	<title>アラエス &#187; 遣隋使</title>
	<atom:link href="http://ahlaes.com/post/tag/%e9%81%a3%e9%9a%8b%e4%bd%bf/feed" rel="self" type="application/rss+xml" />
	<link>http://ahlaes.com</link>
	<description>－全ての人に学びの空間を－</description>
	<lastBuildDate>Thu, 23 Oct 2025 02:10:23 +0000</lastBuildDate>
	<language>ja</language>
		<sy:updatePeriod>hourly</sy:updatePeriod>
		<sy:updateFrequency>1</sy:updateFrequency>
	<generator>https://wordpress.org/?v=3.8.41</generator>
<xhtml:link rel="alternate" media="handheld" type="text/html" href="http://ahlaes.com/post/tag/%e9%81%a3%e9%9a%8b%e4%bd%bf/feed" />
	<item>
		<title>儒学の受容と展開について</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/1629</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/1629#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 14 Nov 2013 19:25:17 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[ゴンショウ]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[日本思想前期　－古代・中世・近世・幕末－]]></category>
		<category><![CDATA[上下定分の理]]></category>
		<category><![CDATA[儒学]]></category>
		<category><![CDATA[天人合一]]></category>
		<category><![CDATA[存心持敬]]></category>
		<category><![CDATA[新井白石]]></category>
		<category><![CDATA[朝廷]]></category>
		<category><![CDATA[朱子学]]></category>
		<category><![CDATA[格物致知]]></category>
		<category><![CDATA[藤原惺窩]]></category>
		<category><![CDATA[遣隋使]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://ahlaes.com/?p=1629</guid>
		<description><![CDATA[儒学について考えます &#160; &#160; &#160; ・儒学の受容（儒学は、日本にどのように取り入れられたのか） 　 　・儒学は、７世紀頃に朝廷が遣隋使（のちに遣唐使）を中国に派遣したことで、 　　日本に入って [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/1629">儒学の受容と展開について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>儒学について考えます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・儒学の受容（儒学は、日本にどのように取り入れられたのか）</p>
<p>　</p>
<p>　・儒学は、７世紀頃に朝廷が遣隋使（のちに遣唐使）を中国に派遣したことで、</p>
<p>　　日本に入ってきた</p>
<p>　　→これにより、官人（現在で言う役人）によって政治が行われるようになったり、</p>
<p>　　　律令が制定されたりした</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・官人の育成には明教道が重要とされ、明教道以外には明法道や紀伝道などがあった</p>
<p>　　※明教道：「礼記」や「易経」などの儒学の経典を学ぶ学問のこと</p>
<p>　　　明法道：律令（法律や政治経済についての規定のこと）や</p>
<p>　　　　　　　格式（礼儀や作法のこと）を学ぶ学問のこと</p>
<p>　　　紀伝道：「史記」や「文選」を学ぶ学問のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　→儒学は、政治に関係する規定の手本として理解され、受け入れられていった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・朱子学の思想、考え方について</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・朱子学は儒学の一部で、日本では特に江戸時代に朱子学が盛んになった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・当時は、朱子学が考える理（物事の根本の正しい考え）は天という場所にあると</p>
<p>　　考えられており、天にある理が理想だから求めていこうと考えていた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・当時の朱子学に関連した人</p>
<p>　　・藤原惺窩：元々は禅宗の僧だったが、一般の人に戻り、儒学者となった。</p>
<p>　　　　　　　　江戸時代の儒学の生みの親</p>
<p>　　・林羅山：禅宗の僧となることを拒んで、朱子学者として、幕府に仕えた</p>
<p>　　・山崎闇斎：塾を開いて、朱子学を説明し、教えていった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・林羅山や山崎闇斎の朱子学の考え方</p>
<p>　　</p>
<p>　　・政治を行う人や君子は、自分が控え目な行動をすること、</p>
<p>　　　自分の行動を慎むこと（＝敬）によって、欲望や情念（抑えがたい感情）を捨てて、</p>
<p>　　　人間に元々ある本来の心を維持するべきだと考えた</p>
<p>　　　＝これを存心持敬と言う</p>
<p>　</p>
<p>　　・本来の心を維持することで、天と通い合うから、</p>
<p>　　　天と通い合い、天と自分の本来の心を合一しなければいけないと考えた</p>
<p>　　　＝この考え方を天人合一と言う</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※天人合一とは・・</p>
<p>　　　　→天より下の世界（＝世俗世界、人々が生活している世界）にある道理（＝天理）を</p>
<p>　　　　　理解して、実際に自分自身で理を表現すること</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※天理は、四季や時間の経過など、自然現象などの道理だけでなく、</p>
<p>　　　　上下定分の理も含まれると考えた</p>
<p>　　　　</p>
<p>　　　※上下定分の理とは・・</p>
<p>　　　　→王様と家来のような上下の関係や身分秩序などは、</p>
<p>　　　　　道理が表現されているという考え方のこと</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　・政治を行う人（為政者）は、全ての道理を明らかにして、</p>
<p>　　　物事を全て知り尽くしていないといけないと考えた</p>
<p>　　　＝このような考え方を格物致知と言う</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　※儒学や朱子学を勉強した人の中で活躍した人達について</p>
<p>　　・貝原益軒－薬草を中心に植物の観察と分類を行って、</p>
<p>　　　　　　　　「大和本草」という本を書いた</p>
<p>　　・新井白石－朱子学の立場からキリスト教の教説に対する批判を書いた</p>
<p>　　　　　　　　「西洋紀聞」という本を書いた</p>
<p>　　・雨森芳洲－「交鱗提醒」というものを書いて、朝鮮との外交を</p>
<p>　　　　　　　　どうするべきかを考えた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・儒学は、遣隋使（後の遣唐使）によって入ってきた</p>
<p>・明教道が重要とされ、明教道以外には明法道や紀伝道などがあった</p>
<p>・儒学は、政治に関係する規定の手本として理解され、受け入れられていった</p>
<p>・当時の朱子学は天にある理を理想とした</p>
<p>・当時の朱子学に関連する人に藤原惺窩、林羅山、山崎闇斎などがいる</p>
<p>・羅山や闇斎は、存心持敬を維持した上での天人合一を重視した</p>
<p>・天理の中には、上下定分の理も含まれていると考えた</p>
<p>・格物致知が大切だとした</p>
<p>・その他に、貝原益軒、新井白石、雨森芳洲がいる</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/1629">儒学の受容と展開について</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://ahlaes.com/post/1629/feed</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
	<xhtml:link rel="alternate" media="handheld" type="text/html" href="http://ahlaes.com/post/1629" />
	</item>
		<item>
		<title>飛鳥朝廷について②　－東アジアの動向の中での日本の動きについてー</title>
		<link>http://ahlaes.com/post/1109</link>
		<comments>http://ahlaes.com/post/1109#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 21 Oct 2013 09:11:23 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[世界は仲間]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[飛鳥時代]]></category>
		<category><![CDATA[冠位十二階]]></category>
		<category><![CDATA[小野妹子]]></category>
		<category><![CDATA[崇峻天皇]]></category>
		<category><![CDATA[憲法十七条]]></category>
		<category><![CDATA[推古天皇]]></category>
		<category><![CDATA[物部守屋]]></category>
		<category><![CDATA[犬上御田鍬]]></category>
		<category><![CDATA[聖徳太子]]></category>
		<category><![CDATA[蘇我馬子]]></category>
		<category><![CDATA[遣隋使]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://ahlaes.com/?p=1109</guid>
		<description><![CDATA[飛鳥朝廷について、東アジアの動向の中での日本の動きについて考えてみます &#160; &#160; ・東アジアの動向の中での日本の動きについて &#160; 　・日本国内では、大臣である蘇我馬子が５８７年に物部守屋を倒し [&#8230;]<p><a href="http://ahlaes.com/post/1109">飛鳥朝廷について②　－東アジアの動向の中での日本の動きについてー</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>
<p>飛鳥朝廷について、東アジアの動向の中での日本の動きについて考えてみます</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>・東アジアの動向の中での日本の動きについて</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・日本国内では、大臣である蘇我馬子が５８７年に物部守屋を倒し、</p>
<p>　　５９２年に崇峻天皇を暗殺することで日本政治の権力を握った</p>
<p>　　→その後、敏達天皇という人の后である推古天皇という人が、新しく天皇として即位した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・推古天皇の政治は、蘇我馬子や、推古天皇の甥の厩戸王（聖徳太子）らが</p>
<p>　　協力することで行っていた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・聖徳太子によって、６０３年に冠位十二階、６０４年に憲法十七条が作られた</p>
<p>　　※・冠位十二階・・個人の才能や功績に対して冠位を与えることで、</p>
<p>　　　　　　　　　　　氏という単位の王権の下での組織を変えようとした</p>
<p>　　　　　　　　　　　→ただし、蘇我氏は冠位を与えるほうなので、冠位は無い</p>
<p>　　　・憲法十七条・・豪族に官僚としての心構えを教えることと、</p>
<p>　　　　　　　　　　　仏教を取り入れようとすることを提唱した</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　　　※なぜ、冠位十二階や憲法十七条を作ったのか</p>
<p>　　　　→中央集権体制を作りたかったから</p>
<p>　　　　　＝権力を中央に集めたかった</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　・中国との交流も活発に行われるようになった</p>
<p>　　→・６０７年に初めての遣隋使として、小野妹子という人が中国に行った</p>
<p>　　　　　※この時、隋への日本からの手紙は、中国の皇帝である煬帝に貢ぐスタイルを</p>
<p>　　　　　　取らなかったので、無礼だとされた</p>
<p>　　　　　※６１８年に隋が無くなり、唐が出てきた</p>
<p>　　　・６３０年に初めての遣唐使として、犬上御田鍬という人が中国に行った</p>
<p>　　　※高向玄理、南淵請安、旻などの留学生や学問僧は、遣隋使について行き、</p>
<p>　　　　中国の制度、文化、思想などの新しい知識を日本に伝えた</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>ポイント</p>
<p>・東アジアの動向の中での日本の動きについておさえる</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>このあたりが今回のポイントです</p></p>
<p><a href="http://ahlaes.com/post/1109">飛鳥朝廷について②　－東アジアの動向の中での日本の動きについてー</a> from: <a href="http://ahlaes.com">アラエス</a></p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://ahlaes.com/post/1109/feed</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
	<xhtml:link rel="alternate" media="handheld" type="text/html" href="http://ahlaes.com/post/1109" />
	</item>
	</channel>
</rss>
