飛鳥朝廷について② -東アジアの動向の中での日本の動きについてー
飛鳥朝廷について、東アジアの動向の中での日本の動きについて考えてみます
・東アジアの動向の中での日本の動きについて
・日本国内では、大臣である蘇我馬子が587年に物部守屋を倒し、
592年に崇峻天皇を暗殺することで日本政治の権力を握った
→その後、敏達天皇という人の后である推古天皇という人が、新しく天皇として即位した
・推古天皇の政治は、蘇我馬子や、推古天皇の甥の厩戸王(聖徳太子)らが
協力することで行っていた
・聖徳太子によって、603年に冠位十二階、604年に憲法十七条が作られた
※・冠位十二階・・個人の才能や功績に対して冠位を与えることで、
氏という単位の王権の下での組織を変えようとした
→ただし、蘇我氏は冠位を与えるほうなので、冠位は無い
・憲法十七条・・豪族に官僚としての心構えを教えることと、
仏教を取り入れようとすることを提唱した
※なぜ、冠位十二階や憲法十七条を作ったのか
→中央集権体制を作りたかったから
=権力を中央に集めたかった
・中国との交流も活発に行われるようになった
→・607年に初めての遣隋使として、小野妹子という人が中国に行った
※この時、隋への日本からの手紙は、中国の皇帝である煬帝に貢ぐスタイルを
取らなかったので、無礼だとされた
※618年に隋が無くなり、唐が出てきた
・630年に初めての遣唐使として、犬上御田鍬という人が中国に行った
※高向玄理、南淵請安、旻などの留学生や学問僧は、遣隋使について行き、
中国の制度、文化、思想などの新しい知識を日本に伝えた
ポイント
・東アジアの動向の中での日本の動きについておさえる
このあたりが今回のポイントです