飛鳥朝廷について① -東アジアとヤマト政権の関係について-
飛鳥朝廷について、東アジアとヤマト政権の関係について考えてみます
・東アジアとヤマト政権との関係について
・6世紀の朝鮮半島で、百済と新羅が高句麗に圧力をかけられたため、
百済と新羅が勢力を南下していった
→そのため、加耶諸国が562年までに百済と新羅の支配下になってしまった
※ヤマト政権は、加耶諸国と濃い関係があったので、
ヤマト政権の朝鮮半島での力は弱くなった
・6世紀初めは、大伴氏(大伴という氏)が政治を指導していた
→大伴氏が朝鮮半島に対する政治を行った時に、
大伴金村という人が地位と勢力を失ってしまった
(加耶諸国を百済が支配してしまったことが政治の失敗だと考えられたため)
・6世紀中ごろに、物部氏と蘇我氏という2つの氏が対立するようになった
→対立に関しては、仏教を受け入れることに積極的な蘇我馬子という人と、
消極的な物部守屋という人との戦いになり、
587年に蘇我氏が物部守屋を倒したことで、蘇我氏の権力が作られるようになった
→蘇我氏が権力を握った時に、以下のような行動をとった
・蘇我氏は渡来人とも手を組んで、朝廷の財政に関する権利をコントロールした
・政治の仕組みを整えたり、仏教を受け入れることを積極的に行ったりした
・589年には、中国で隋が南北朝を統一して、高句麗などに進出するようになっていった
→ここから、東アジアは激しい時代になっていったと言われている
ポイント
・東アジアとヤマト政権との関係についておさえる
このあたりが今回のポイントです