飛鳥朝廷について③ -飛鳥文化-
飛鳥文化について考えてみます
・飛鳥の朝廷について
・6世紀の終わりころから、飛鳥(奈良盆地南部)という場所に、
大王の王宮が大量に作られた
→飛鳥に王権が集中して、その近くに王様に関する様々な施設が作られるようになった
=飛鳥は段々と都になっていき、結果的に宮都(宮と京が一緒になるような状態)が
作られるようになった
・飛鳥の文化について
・7世紀の前半に、蘇我氏が中心となって、仏教を広めようとした
=このような仏教中心の文化を、飛鳥文化という
→飛鳥文化は、渡来人の影響もあり、百済、高句麗、南北朝時代の中国の影響を受けた
※・百済の僧である観勒という人が暦法を伝えた
・高句麗の僧である曇徴という人が彩色、紙、墨の技術を伝えた
・当時作られた物について
・蘇我馬子・・596年に飛鳥寺(法興寺)を作っていて、
飛鳥寺に伽藍建築が取り入れられている
※伽藍建築・・今までの掘立柱とは違い、礎石の上に柱を立て、
屋根に瓦を敷く建築技法のこと
・舒明天皇・・百済大寺を作った
・聖徳太子・・四天王寺と法隆寺(斑鳩寺)を作った
※法隆寺は、一度焼けて、再建していると言われている
→寺院を作ることは、古墳の代わりに豪族の力を示すものになった
・鞍作鳥・・法隆寺金堂釈迦三尊像という像を作った
→この作品は、中国の南北朝のスタイルを取り入れて作られたと言われている
ポイント
・飛鳥文化についておさえる
このあたりが今回のポイントです