大化の改新について
大化の改新について考えてみます
・大化改新について
・7世紀の半ばに唐が高句麗を攻撃し始めた
→そのため、東アジアで緊張感が高まると同時に、唐と高句麗の動きが
どうなるか分からないので周りの国々は、中央集権化をすることと、
国内を統一することが必要になってきた
・日本では、蘇我入鹿という人が、厩戸王の子どもである山背大兄王という人を倒して、
権力を集中させようとした
・一方で、中大兄皇子という人は、蘇我倉山田石川麻呂や中臣鎌足という人達の協力によって、
王族を中心とした中央集権を目指そうとした
→そこで中大兄皇子が、中央集権に対する考え方が違う蘇我蝦夷、蘇我入鹿を倒した
=この出来事を乙巳の変という
・乙巳の変によって、何が起きたのか
→・王族の軽皇子という人が位について、孝徳天皇になり、孝徳天皇が中心となった
・阿倍内麻呂という人を左大臣、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣に置いた
・中臣鎌足を内臣に置いた
・旻と高向玄理を国博士に置いた
→このようなスタイルの新しい政権が誕生し、それと同時に飛鳥から難波に移り、
645年に政治改革を行おうとした
=この時に行おうとした政治改革のことを大化の改新と言う
・大化の改新で何を行ったのか
→・646年に「改新の詔」を出して、豪族の田荘と部曲を廃止にすることで、
公地公民制に移ろうとした
※公地公民制・・土地と人民を豪族ではなく、国がコントロールする制度のこと
・全国の人々や田んぼの調査を行った
・統一した税金の制度を作ろうとした
・地方の行政をコントロールする組織として、「評」という組織を各地に作った
・中央の行政の制度を整備した
・難波宮という宮が作られた
=以上のようなことを行うことで、中央集権化を行っていった
※大化の改新の時に、中大兄皇子の力が強くなっていった
→中大兄皇子の力によって、古人大兄王、蘇我倉山田石川麻呂、
孝徳天皇の皇子の有間皇子が滅ぼされたということがあった
ポイント
・大化の改新についておさえる
このあたりが今回のポイントです