大宝律令とその制度について -政治スタイルと官吏-
大宝律令と民衆について考えてみます
・大宝律令について
・大宝律令とは
→・701年(大宝元年)に刑部親王と藤原不比等という人達によって、
作られた律令のこと
・律は、刑法のことを指す
・令は、役人の勤務の規定や人々の税金の規定などのことを指す
→大宝律令が完成した時に、律令制度を使った政治の仕組みもほぼ完成した
※718年に藤原不比等などが養老律令というものを作ったが、
大宝律令と大きくは変わらなかった
・大宝律令の時の政治制度とスタイルについて
・中央行政組織
→・神祇官と太政官という2つの官があった
※・神祇官・・神々の祭りを仕切る
・太政官・・行政全般を仕切る
→太政官の下に、八省の省があり、
それぞれの省が政治や事務を行った
・行政の運営は、力のある氏から任命された、太政官の公卿が
話し合うことで行われた
※公卿・・公と卿のことで、太政大臣、大納言、参議などを指す
・地方組織
→・全国が、畿内と七道に区分されるようになった
※・畿内は、5つ(山城、大和、河内、和泉、摂津)に分けられた
・七道は、東北道、東海道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道を指す
・国、郡、里(里は後で郷になる)という行政区画が設置された
※・国について→・国司という、中央から派遣された地方の官僚が置かれた
・国司は、国府という役所(後に国衙と呼ばれるようになる)で
国の中を治めようとした
・郡について→・郡司という、国司の下で郡を治める地方の官僚が置かれた
・郡司は、昔からの地方豪族が任命された
・郡司は、郡家という郡の役所で、郡の中を治めようとした
・その他の地域
→・京に、左京職と右京職という、京都の政治などを行う役所を置いた
・難波に、摂津職を置いた
・九州北部に太宰府を置いた
※大宰府は西海道をまとめる役割があり、九州北部は外交や軍事のために
重要な場所として重視された
→地方組織やその他の地域の役所には、多くの官吏(役人)が勤務していた
・官吏について
・官吏には、官位相当制が採用された
※官位相当制・・官吏に位階を与えて、位階に合わせて官職を任命する制度のこと
→位階や官職に合わせて、封戸、田地、禄と言われる給与が与えられたり、
調、庸、雑徭などの負担が免除されたりした
※・封戸・・その戸からの税収が封主に与えられるという、
位封や職封などの給与こと
・田地・・位田や職田などの田んぼという給与のこと
・禄・・年に2回現物給付で与えられる季禄などの給与のこと
・位が五位という位以上の貴族は手厚い保護を受けた
・蔭位の制が採用された
→蔭位の制・・五位以上の子、三位以上の孫は、父(祖父)の位階に応じた
位階を与えられる制度のこと
※蔭位の制には、貴族が自分達の身分を維持し続けるという目的があった
・貴族や役人は、刑罰に関しては重罪でなければ実刑にはならなかった
→刑罰も、免職や代償で刑罰自体が免除される、という権利があった
・司法制度について
・刑罰には五刑(笞、杖、徒、流、死)がある
→地方では、郡司に笞罪までの裁判の権利があった
・国家、天皇、親や伯父伯母などに反発することは罪であり、特に重い罪だとされた
→この罪を八虐と言い、位の高い人でも免除されなかったり、
刑が減ったりしないくらい重い罪だとされた
※この法律を作った目的には、国家や社会の秩序を守るという狙いがある
ポイント
・大宝律令の概要と、大宝律令の時の政治スタイルを押さえる
このあたりが今回のポイントです